ぼくは毎日ネットから記事を集める。
丸ごとリツイート、シェア、コピーしたりはしない。中身を要約し、他の記事との関連付けを明らかにして、新たな読み物を創る。独自ドメインを取ったホームページで公開する。わずかな広告はあるものの、基本的に記事は自由に読める。
今のところ、これはぼくの趣味にすぎない。
いくら時間を使っていても、食っていけないものは仕事とはいえないだろう。もっとアクセス数が増えれば、広告を増やし有料化でやっていけるかも知れない。そのためには知名度アップのためのプロモーションが欠かせないが、これ以上時間をかける価値があるのかと、いつも悩んでしまうのだ。
まあ、お金だけが目的ではない。
サイト名は、Disaster News from Around the World、天災が専門だ。気象変動や地震、山火事など、自然にかかわる災害全般の記事をまとめている。
自然災害は世界で日々起こっている。
これはある意味当然なのだが、災害の記事は特定の地域に偏る。たとえば、マスメディアの記事は日本で起こった災害だけに注目する。広域に影響を及ぼす台風被害でも、記載内容の大半は日本国内に限られる。
よほどの大災害でも起きない限り、日本語で韓国や台湾の被害に触れる記事はあまりみかけない。他国の方が被害が大きくてもそうだ。読み手の興味が、外国にはないからだ。しかし、自然災害に国境はない。ぼくの場合は、台風ならば国を問わず情報を探す。フィリピン、韓国や台湾、中国くらいなら、オープンのネット情報だけでも十分なデータが集められる。そういうものを有機的、時間的にからめると、台風の生涯がひとつの物語に変わる。我ながら面白い企画だと思う。
とはいえ、書くのは大変だ。言語にはいつも悩まされる。ぼくが読めるのはせいぜい英語までで、他の国語はお手上げだ。ひたすら機械翻訳に頼って、英語に直した記事を読む。翻訳エンジンにもよるのだが、直接日本語に翻訳するより英語にした方が正確なのだ。その英語にしても校正係がいないのだから、ぼくの記事に誤訳やニュアンスの違いが含まれるのは、ご愛嬌と我慢していただくほかない。
つまり、そういう意味で趣味なのである。
「台風の話が多いみたいだね」
「数が多いから。毎年必ず、増減はあっても八〇個前後発生する」
「そんなにあったっけ、台風って」
「ああ、トロピカルストーム全体の話だよ」
「うーん、つまりハリケーンとか」
「そう、ハリケーン、タイフーン、サイクロンと別々の名前に分かれているけど、それは国によって人間側が勝手に付けた呼び名で、同じトロピカルストームだからね」
「熱帯の嵐かあ」
「正しくは熱帯性擾乱」
「はーん」
ケイとはよく話す。だらだらと会話して、ときどきサイトの話をする。
付き合っているわけではないのだ。
ケイは人妻で、旦那とともにぼくの盟友である。でも、なぜか旦那と話をする機会は少なく、ケイとしょっちゅうくだらない雑談をする。
「被害が出るのは、春遅くから年末までが多いな。どれも大なり小なりの被害を引き起こしている。年間を通して発生する」
「増えてるのかな、ストームの数」
「数というより、強いものが増えてる」
「地球温暖化のせいね」
「そう言われるけど、まだ因果関係は明確じゃない」
「はーん、でも台風ってあまり人が死ななくなったんでしょう」
「予測精度が上がったし、ニュースも細かくなったから、あらかじめ備えられる先進国ほど死傷者は少ない。ただね、今でも情報が少ない地域は被害に遭ってる」
「なるほどね」
ケイはコーヒーを飲み干すと、手を振って休憩室から出て行く。
ケイとぼくとは同じ会社の同僚になる。小さな会社だ。ケイの旦那は会社の創業者でCEOというか社長、毎日忙しく働いている。ほとんど会社にいない。
ぼくは経営など肌に合わないので、技術職のままだ。
一応創業メンバーだから、役員待遇という職階にあるがCTOではない。管理の仕事はしないし、部下も持たない性分だ。日がな一日研究室にこもっている。
そういうわがままが許されるのは、この会社を成り立たせる基本技術を、ぼくが開発したからだ。ケイは経営管理と人事担当の役員、いわゆるCFO。まあ、ぼくよりは働いている。
「わたくしどもMATIは、世界で始めて、Pタイプ微生物を量産化する技術開発に成功した企業です」
社長のプレゼンに同席したことがある。
相手が投資先だったり、企業だったりする場合は断るのだが、市民や学校向けの講演会だったりすると、付き合うことがある。一般の人がどう思うのか、興味が湧くからだ。ちなみに、MATIとはこの会社、微生物応用技術研究所 Microbial Applied Technology Instituteの略語である。
そう、ぼくらの会社は、微生物の量産を図るベンチャーなのだ。
今では独立しているが、もともとぼくがいた大学の研究室から、スピンアウトしてできた会社だ。
「みなさん、地球上に微生物がどのくらい生きているかご存じでしょうか。微生物とは、顕微鏡を使わないと見ることのできないごく小さな生き物です。高空や深い地中、深海や熱水孔など、他の生命が全く生きていけないところでも、微生物なら生存できます。
そんな小さなものですが、すべての微生物を合計した総重量は、地球上の植物全体に匹敵するとも言われています。みなさんが予想したより、ずっと大きかったのではないでしょうか。大変な種類と量になります。
彼らは何でも食べます。だからこそ、これだけ多様な環境下で生きていけるわけです。人間はそのごく一部を利用しているにすぎません。発酵や醸造といった形でですが、もちろん微生物の全貌はまだ全く分かっていないに等しい」
ぼくらは、プラスチックを分解する微生物を見つけ出した。
長い間、プラスチックは自然界で分解できないとされてきた。過去にも分解微生物は調査されたのだが、見つからなかった。
プラスチックは極めて安定した化合物なので、風雨など自然現象だけで化学的に分解されることはない。どんな形にでもできるから、武骨な金属や、自然界の木材や石で造られたものが、いまではプラスチックに置き換わっている。
圧倒的に多いのは、さまざまな容器、包装材料、パッケージだろう。
応用範囲は広く、生産量は半世紀余りで二十倍も伸び、近い将来の二〇五〇年には十一億トンが毎年造られるという。しかしリサイクルされるのは最大でも一五パーセント未満で、七割は埋め立てや投棄などで環境に流出するのだ。
社長はグラフを見せながら、プラスチック製品の便利さと、リサイクルの難しさを説明する。
「リサイクル率一五パーセントと聞くとどうでしょう、意外に少ないように思えますが、そのうち同種のプラスチックにリサイクルされるのは、なんと二パーセントにすぎません。焼却されるもの以外の大半は、どこかに捨てられる。つまりロスが大きいのです。ロスと簡単に言いましたが、これらの多くは途上国に運ばれたり、海洋に不法投棄されるのです。こんな状況では、わたしたちの食べ物にまでプラスチックの細片が混じるのも、やむをえないかも知れません」
だが数年前、PET樹脂を分解する微生物が発見された。
PET、ポリエチレンテレフタレート、つまりある種のポリエステルは、エチレングリコールとテレフタル酸の脱水重合で造られる。それを分解する酵素を持つ微生物なのだ。
重要な転回点だった。PETも安定した化合物で、自然に分解などしない。ポリエステルは人工物ばかりではない。自然界にはクチンのような天然のポリエステルがある。そのため、クチンを分解する微生物がいるのなら、PETも分解するのではないかと考えられてきた。ところが、見つかった微生物は、既知の微生物とは違う性質を持っていた。PETに特化した分解酵素を分泌するのだ。
「不思議な話でしょう。PETが生まれたのは二十世紀になってからです。微生物が突然変異して、そういう特性を持ったとも考えられますが、あまりにも期間が短すぎる。つまり過去から存在していたことになります。驚くほど多様な微生物の中に、たまたまPETとの相性が良かったものがいたとしか考えられません」
だとすると、他のプラスチックを食べる微生物も存在するのではないか。
ぼくらはそう考えて研究を進めたのだ。大量のプラスチックを回収分析し、培養を繰り返して証拠を探した。
「われわれは独自に開発した評価方法により、多様な微生物を同定することに成功しました。いまこれらは量産化の準備がなされています。自然分解型の安価な処理施設で、大量に発生するプラスチック廃棄物を分解できる日も近いと思います」
高額な焼却施設も、広大な面積が必要な埋め立て地も必要としない。微生物の培養施設があれば、プラスチックは二酸化炭素と水に分解されてしまう。極めて低コストな処理が可能になる。安ければ、違法なリサイクル業者だって駆逐できるだろう。
「質問があるのですが」
白髪で痩せた男性が手を挙げた。
平日昼間に開かれる市民講座となると、受講者は高齢者が多い。どうせ居眠りする暇を持て余した老人たちと侮ると、虚を突かれることがある。演目によって客層は変わり、見かけは同じでも反応はかなり違うのだ。元エンジニアや元研究者だって交じっている。
「面白いお話で、大変勉強になりました。ただね、ちょっと気になるのは、なぜ今になってそういう微生物が都合良く見つかるかです。たまたまがそんなに続くとは考えにくい。もっと根本的な理由はないのですか」
社長は少し困った顔をした。
「仰られるように、偶然を理由にするのは科学的とはいえません。われわれの発見は、AIを用いた学習による効率的な調査が実を結んだ結果であって、それは偶然ではないと考えています」
「うん、探し方はともかく、昔から存在したというわけですね」
「多様な生き物ですから」
ちょっとごまかしたな。ぼくは思った。なぜ自然界にプラスチック分解菌が都合良く存在したのか、その答えにはなっていないからだ。質問者は紳士だったので、食いさがっては来なかった。
いくら多様性を誇る微生物だとしても、人間が勝手に合成した、しかもごく最近発明されたプラスチックを分解できるのはなぜか。PET分解の例でも分かるように、よく似た自然の物質を分解していたものとは「別に」存在している。ふつうに考えればおかしい。
なぜそんな偶然が起こるのか。ぼくがときどき疑問に囚われる事項だ。答えはないと分かっているので深くは考えないが。
会社はまだ黒字になっていない。国や研究機関、環境基金などの投資でまかなっている。最近、海外のファンドも興味を示しているという。
お金を回すのはとにかく大変だわ。とケイは愚痴をこぼすが、頭の固い投資先との駆け引きを楽しんでいるようだ。
だまし合いだね、成否は時の運なんだから。そんなことを言う。
窓の外はどしゃぶりの雨だった。
「こういうゲリラ豪雨こそ、温暖化に関係するよね」
ついさっきまでは晴れていたのだ。
「備えられないから悪質だね。豪雨被害となると、犠牲者が多くなる。台風とセットになることもあれば、ある日突然起こることもある」
「日本だけじゃないよね」
「アジアでは恒常的にあるし、いまでは欧州やアメリカ、どこでも起こってる」
「外国のことは、あまり知らないなあ」
誰でもそうだが、自分の住んでいるところ以外の情報は関心が薄くなる。東京から見たら大阪だって異邦だ。国内でそうなのだから、遠い異国の災害に興味を持つ人などほとんどいない。
「トロピカルストームが増えたのと関係あるの」
「災害の増減と台風の増減は、関係があるかも知れない。気象のベースとなる大気が不安定になっているからね。不安定化の原因は大雑把にいえば温暖化だけど、でもその主因は明確じゃない」
「そういう真相究明は記事にしないの」
「ぼくのサイトは事実だけを書こうとしてる。真相究明はしたいけど、断定できるような証拠はない。誤解を生みたくないからね」
「慎重すぎるんじゃないの。そんなことじゃサイトの人気でないよ」
「目的が違うでしょう」
「まあ、趣味なんだから人それぞれだけど」
ケイにそう言われると、無責任だと難じられているようで、ちょっとむっとする。
「うん、まあ」
確かにメッセージを明確に伝えるのが、ブログとかサイトの目的だとする考え方もある。ただ、ぼくの好みじゃない。考えるのはあくまで読者、ぼくは材料を提示するだけだ。
窓の向こうで雷が光った。少し時間を空けて、叩きつけるような低い音がした。音は何度も繰り返し、雨はなかなか収まらなかった。ごぼごぼと、いやな響きが雨水を受ける溝から聞こえ、あふれ出した水で道路は川になっていた。
ぼくらの会社は量産化設備を持たない。事業化のため、パートナー企業とアライアンスを組んで生産する。
日本にいると分かり難いのだが、世界的には廃棄プラスチックは深刻な社会問題を生み出している。だいぶまえに最大の受け入れ国だった中国が輸入禁止にしてから、行き場を失った廃プラスチックは、環境をさらに汚染するようになった。状況は悪化するばかりだ。その一方、国際的な支援金も出るようになって、採算性で苦しんでいた業界に商機が巡ってきた。
プラスチックを処理する方法はいくつかある。
細かいチップに裁断し熱で溶かして、新たな製品に作り直すのが一番だが、それができるプラスチックは種類が限られる。
量的に一番多いのは、焼却炉の焚きつけだ。燃やしてしまう方法で、乱暴だが石油精製物と考えれば合理的ではある。炉の燃料は、どうせ石油か石油由来のガスなのだ。しかし高熱炉を使わなければ、有毒ガスなどの副産物が発生する。環境的には望ましくない。
埋め立ても多い。だが、分解微生物がいない状況では問題を先送りしただけになる。生物を使う分解ができれば、巨大な設備もいらないしメンテナンスも楽になる。生成される二酸化炭素量は燃やすよりはるかに少ないし、水はまさに真水で毒性はない。
「予想したよりも、槽が高温になるのです」
PC画面に映る担当部長が、表を示しながら説明してくれた。
「五〇度にもなる。これで正しいのでしょうか」
通話相手は会議室にいる。日本は春先だが、背景のブラインドが降りた窓を開けると、熱帯の空が見えるはずだ。インドネシアにある廃棄物処理の企業だった。ぼくらのパートナー企業は、緊急処置が必要な東南アジアとインドに多い。
「発酵のような現象なので、ある程度は上昇すると思いますが、ただこの値は大きすぎるかも知れません」
ぼくは、そう答えて首をかしげる。
現地に何度もわたって契約したのは社長で、ぼくは設備の段取りを決める際に一度行っただけだ。後はPC会議で連絡を取り合っている。
事業化のための実験は順調に進んでいた。さまざまな大きさの分解槽を造って、プラスチックを種類別に分別し、分解速度を調べている。一口にプラスチックといっても、たとえばポリエチレンとポリスチレンでは成分が違う。対応できる微生物もそれぞれ異なる。将来的には分別なしでの分解も可能になるだろうが、今はまだできていない。
ぼくらの使う微生物は遺伝子操作をしていない。人工的な調整を加えてしまうと、自然環境下に放すことがより難しくなる。国々によって異なる法令を満たすこともできなくなるだろう。ただ、自然だから安全とはいえない。現在の実用化試験の結果に依存するのだ。
画面が切り替わって、戸外の実験槽が映し出された。そこからは靄のような蒸気が上がっていた。暑いインドネシアの昼間なのに。
ぼくは微生物採取のため、さまざまな場所に赴いた。
埋め立て地ではあまり成果は出なかった。
破砕されたり、重機で踏み潰されたプラスチックが土の中に埋もれた状態だ。日照りの中で掘り出すのも大変だし、他の様々なごみと混ざり合った状態では、特定の微生物を探すのは難しい。分別されたごみの集積場も巡ってみた。PET分解生物では成果のあった方法だが、ぼくらは運がなかった。
海洋汚染を監視するNPOの協力も得た。
海には海流が流れている。源流と河口がある川とは違って、海流には終わりがない。何千キロもの距離を巡ってぐるぐると回り続けている。大洋ともなると複雑な流れがある。大きなものなら、日本の黒潮からカリフォルニア海流までを含む北太平洋海流や、南太平洋の南赤道反流などが知られている。
この海流に乗ってしまうと、永久に大洋を回り続けそうなのだが、実はそうはならない。地球の自転の関係で潮流は西側が強く、東側は緩やかになる。そのために漂流物は、流れの方向が変わる両端に溜まりやすくなる。地球全体では五つの滞留ゾーンがあるといわれる。南北太平洋ゾーン、南北大西洋ゾーン、それにインド洋だ。
ハワイからチャーター船に乗り、西海岸に至る北太平洋ゾーンに属する滞留域ジャイヤ、つまり渦巻きまで行ったことがある。そこでは、海面を埋め尽くすとまではいかないが、網を投げるといくらでもパッケージの欠片のようなごみを回収できた。陸地が全く見えない海の真ん中で、人工的な漂流物に囲まれるというのは奇妙な体験だ。
プラスチックのごみは分解が進まず溜まりやすい。ごみの滞留ポイントに行けば、大陸から漂着したあらゆるプラスチックを入手できる。そこには、さまざまな微生物が付着している。
丁寧に採取したサンプルから、ついに当たりを引いた。
一つ見つかると、あとからいくつも出てくる。海こそ有望なポイントなのかも知れない。実は過去から海にはプラスチック分解微生物が存在するという説があった。排出されるごみの量と、海洋漂流物の間での量的な差異を統計処理した結果から結論づけたのだ。しかし当時は、どのぐらいのプラスチックが浮遊し、どれぐらいが海底に沈むのかの明確な指標はなかった。分解ではなく、細片化が進んでいるだけかも知れない。
今なら、天然のプラスチック分解が進んでいた可能性も高いと言える。自然は手をこまねいて、汚染に甘んじていたわけではなかったのだ。
「今年って、台風多くなるんじゃない」
ケイは窓際に立って外を眺めている。窓の外は暴風が吹き荒れていた。朝はまだ小雨が降るだけだったのに、あっという間に嵐のただなかだ。他の社員はもうみんな帰宅している。
「毎年変動はあるからね。感覚的な雰囲気でいうのはどうだろう」
「えらそう。天気なんて感覚的なもんでしょう」
「まあ、確かに多いね。年の初めから発生してる」
「それって異常なの」
「ふつうでも、年中発生はする。ただ、今年の場合数が多すぎる」
「原因は何なのよ」
「まだよく分からないけど、海流の変化が大きいらしい」
「ああ、黒潮が蛇行してとかね。でも気象とどう関係するの」
「海流変化の原因が何かがはっきりしない。はっきりしない以上、気象に影響したのかどうかわからない」
「またそれか。もうちょっとそれらしい説明をしなさいよ。面白くないじゃない。たとえば、世界中の海流がおかしいとか」
「うーんいや、今年は黒潮だけじゃなくて、主に赤道近くを流れる大きな海流が変化しているらしい」
「はーん、それって大変なことなの」
「気象的には結構大変じゃないかな。トロピカルストームの発生源だし」
「そういう解説がないとね」
「ぼくはあくまでも気象ウォッチャーで、学者じゃないから権威がない」
「わかったわかった」
ケイは呆れた顔をして出ていった。
窓に雨が叩きつける音がする。まだ四月の終わりなのに台風の直撃なのだ。小型で強い台風だった。
五月や六月なら何件か記録があるが、四月となると半世紀前の九州くらいしかないはずだ。すぐに通り過ぎるだろうと、ぼくは帰宅せずに会社に残っていた。数時間ほどのことだったが、通りには新緑を付けた街路樹の枝が、あちこちにばらまかれていた。
プラスチックを分解する微生物は、当初考えていたより高温で活動が昂進することが分かってきた。北太平洋の渦の周辺では、海流は一部深海まで縦方向に潜り込むらしい。もともとこの生き物は、深海底に生息していたのかも知れない。あるいは熱水孔のような特殊な環境を好む可能性もある。
「餌が十分にあれば、自身で環境温度を高めようとするようですね」
ぼくは研究室のデータを読み上げながら言った。
「では、この現象は問題ないのですね」
PCの向こうで部長は念を押した。
「そう考えていいでしょう」
いくら赤道近くといっても、そもそも二十世紀になるまで、エサの滞留はなかったろう。自然環境で、水温は五〇度までにならない。
「反応が激しすぎるように思いますが」
ビデオで見ると、複数の培養槽から湯気が上がっていた。まるで温泉だ。順調に分解が進んでいるのだ。
「いいじゃないですか。効率が上がる」
副作用はないと、ぼくは思っていた。水蒸気が上がっているだけだし、ここから発生する二酸化炭素も戸外の実験槽で問題になることはない。
「それならいいのですが」
画面の中で、部長は少し顔をしかめた。何を気にしているのか、ぼくにはよく分からなかった。
「何か懸念事項がありますか」
「これが自然なのだとしても、外の環境に影響が出る危険性があるのでは」
「外に微生物が漏れても、培養槽ほどエサがない。反応はすぐになくなりますよ」
待望の実用化は近そうだ、ぼくは逆に笑顔を浮かべていた。
トロピカルストームの発生は記録を更新している。しかも、その多くは九〇〇ヘクトパスカルに迫る猛烈な嵐だった。夏を迎える北太平洋では、ハリケーンや台風が量産されるようになった。
「やっぱりね、多いじゃないの」
「史上最多になるとか言われるようになった」
「もう一度聞くけど、原因は何よ」
「やっぱり海流の変化だといわれてるけど」
「じゃ、海流が変化した原因は」
「そこが分からない。例年に比べて海水温に違いがあるのかも」
「ああ、エルニーニョとか」
「エルニーニョは南半球の海水温上昇現象になるんだけど、今回は場所的に違う。しかも、水温が下がるはずの太平洋の西側では下がっていない」
「はーん、場所が違うって、それってどこよ」
「いま分かっているのは、こんな感じで」
ぼくは気象データを画面に表示して見せた。海の水温分布を色分けした衛星データだ。洋上の広い領域が水温三〇度を越えていた。
「もともと海の温度は陸よりも変動が少ない。陸で温暖化が進んでも、海はゆっくりとしか変化しない。季節変動はするけど、毎回決まった変動範囲に収まる。最近その幅が大きくなっているんだよね」
「温暖化が直接の原因じゃないとすると、他に何があるの。海底火山とか」
「いや、そんな現象は起こってないよ。あったら衛星からすぐ見えるからね。温度が高くなってるのは、こことここ……」
ポイントをマウスで指し示しているとき、ぼくは奇妙な暗合に気がついた。
渦だ。
ごみの渦。いや、まさか。
ふだんなら、この辺りは赤道下ほど水温が上がらない。緯度的にもかなり北寄りになる。夏期など、日照の季節変動に比例して上昇するだけだ。それが年初から高い温度を示していた。原因不明の現象とされてきた。
Pタイプ微生物が活動しているのか。それも活発に。でもなぜ今年になって。
ぼくはその疑いをケイに話した。ケイは細かい技術的な内容は知らないが、概要やプロジェクトの進行ぐらいは把握している。
「それって、とても大変な話だよ。うちの存亡にかかわるかも」
「いや、思い付きだよ、証拠がない」
「証拠はない、つまり仮説だね」
「そりゃ、調べようがないから」
「じゃ、はっきりさせよう。Pタイプはうちが見つけるよりも昔から存在していた。OK?」
「そうだ」
「うちで開発したのは増殖のための技術である。OK?」
「そうだ」
「それって、一言でいうと何なの」
「大量のエサを与え、特定温度条件に保つことだ」
「同じことが自然に起こる可能性は」
「いままではあり得ないことだったと思う、でもいまは」
「ありえるの。そんなにエサは濃厚なの」
「毎年十億トンが蓄積されている。かなりの量は細片になったマイクロプラスチックになってる。エサは濃厚にある。温度は、海水温は毎年変動しながら、陸より少ないけど上昇して……」
「つまり」
「つまり、臨界点を越えたのかもしれない。温度が最適になり、そのときエサも豊富にある。一度増殖を始めると、反応温度で環境をさらに過熱していく。だから水温も上がって……」
恒常的に温めた結果が、大洋の海水温上昇につながる。
「はーん。シンギュラリティを越えたわけね。ストームが副産物でついてきたってことか」
「シンギュラリティって。たしかに、ある種の特異点だったのかもしれないけど」
「だとすると、うちの責任じゃないな」
「おいおい」
「自然現象なんだからうちの責任じゃない。でも、世の中に警鐘を与える社会的責任はあるね。メカニズムを公表して、世界で対策を考えてもらわなきゃ」
「公表っていわれてもな」
「今回は傍観者じゃだめだよ。でもいいよ、きみが苦手なのはわかってる。こっちで社長と相談して考える。うちの存在を知ってもらえるチャンスでもあるしね。でも、ちゃんと分かるレポートを書いて出すこと」
「ああ、はい」
まだ裏付けが取れていないのに。
ぼくはそう思ったが、たしかに黙っていても解決を先延ばしにするだけなのだ。いずれ分かることだった。
深海底に、Pタイプ微生物は(おそらく)数万年単位で潜んでいた。細々とエサを漁っていたが、Pタイプが持つ分解酵素では効率が悪いものばかりだったに違いない。それが前世紀の半ばから状況が変わってきた。エサが増えてきたのだ。増加ペースはゆっくりと上昇する。爆発的に伸びたのは、今世紀に入ってから、年間を通しても持続できるようになったのが今年か去年か、ごく最近なのではないか。
蝙蝠のレトロウィルスだったエボラ出血熱が、類人猿を経由して人類を見つけた状況に似ているのかもしれない。微生物と感染性のウィルスではかなり違うのだが。
微生物の増加は水温の上昇を招いた。
海流の流れは、赤道近くに渦を作り出す。渦はエサを呼び寄せ、微生物の繁殖を育む。繁殖は水温の上昇をもたらし、やがて連続的なトロピカルストームを生み出し、ストームはハリケーンや台風や、サイクロンとなって人類の居住地を襲う。もとはといえば、人が生み出したプラスチックが原因なのだ。
嵐がやってきて、風が吹き付け、海水が巻き上げられる。
そのとき、ぼくは気になることを思いついた。
微生物はどうなるのか。台風の中にも微生物が混じっているかもしれない。
条件が整わなければ、大半はそのまま不活性になる。だが、日本でも真夏ならどうだろう。五〇度近い表面温度、気温ではなく表面温度なら、すぐにそれぐらいにはなる。都会でも田舎でも、どこでもプラスチックは豊富にある。
自然は手をこまねいて、汚染に甘んじているわけではない。
- 初出:2018年11月/(『二〇三八年から来た兵士』に収録)