倫理委員会

 カラが言う。
「科学的な根拠のない主張である。リファレンスが不備な上に、関連する論文はフルもショートもレターもない。いわゆる独自研究である」
 ポプが言う。
「ある団体が主催するニュースサイトに記述がある。署名記事ではないがこれが根拠である。読者には偏りがある。同じ読者が、何度も同じ記事を見ている。アクセス数は多いが、層の広がりはない。団体に関係する著者の書物に、同様の内容が記載されている。この購読層もまた同一の分布範囲内と見られる」
 ロウが言う。
「違法ではない。記載内容を規制する法律はない。特定個人を誹謗した結果、民事訴訟で名誉毀損となった判例はあるが、刑事告発に至った前例はない」
 レグが言う。
「この主張は潜在的な破壊衝動を助長するものである。平均的な市民の求める、穏健さとは隔たりがある。さらに、不満を持つ一部過激派の共感を得ている。広範囲に流布されることにより、反社会的な行動を誘発する可能性がある」
 議長による採決が行われる。
「よって、本件に違法性はないため摘発、削除はしないが、露出回数の制限を設ける。また再配付不可とする」

 どういう意味かって?
 これは倫理委員会の議事録なのだ。
 聞いたことない、知らないとか言わないこと。毎月どころか、毎週開かれている、ごく一般的な委員会なんだから。
 この議決だと、投稿された記事、意見、主張、言論はしばらくの間表示され、一定期間後に投稿者以外から見られなくなる。
 記事にはウォーターマークが埋め込まれている。つまり「透かし」だけど、実体は再配付不可を意味する、NFTブロックチェーンの一種だ。コピーでもスクショでも、デジタル操作の範囲ならマークは失われない。たとえアナログカメラで撮った画面であっても、ネットに上がった瞬間に同定され、もとのマークが復元される。言及、引用した記事でも同じマークが付く。
 ただね、読めなくなってると気がつく人は少ないと思うよ。たとえ消されなくても、時間が経つと忘れられるのがふつうでしょ。
 勘違いしないでほしいのだが、これは政府機関の「検閲」じゃない。
 倫理委員会は、ネットメディアが共同出資する民間非営利団体なのだ。政府の傘下にはなく、もちろん、官僚とかの公務員も入っていない。
 すべてをオープンとするのが原則だ。
 何が非表示化されたのか、どういう理由だったのかを分かりやすく公表している。だれでも非表示化された経緯、つまり議事録を読める。内容を他人にしゃべることだってできる。文句をつけるのは自由だ。言論の自由と、公共の平穏とを併存させるために委員会はある。
 ただし、処置に対する異議は受け付けない。委員会は最終決定機関だ。裁判所に控訴することも認められない。
 どうだろう、ちょっと偉そうじゃない。
 自慢じゃないけど、その議事録を書いているのはわたしである。
 わたしの仕事は、倫理委員会の書記なのだ。

「あきれる。そんな仕事って楽しい?」
「仕事だから」
「ストレス溜まりそう」
 わたしは少しむかつく。
 昼下がりのオープンカフェだ。日差しが強くなってきたから、パラソル付きとはいえ、戸外はもう厳しいかも。わたしは珍しく出会った大学時代の友人とお茶している。何年ぶりだっけ。
「そうでもないでしょ」
「議事録書くなんて、人間の仕事じゃないよ」
 そこまで言うな。わたしは人間だ。
「むかしは人間が書いてたんだから」
「ええ、うそ」
 友人は大げさに驚いてみせる。
「ほんとだよ」
「いまは違うでしょ」
 しぶしぶ認める。
「そう、いまは違う」
「じゃ、何のために」
 たしかに、打ち合わせとか、会議の議事録は機械が作る。
 インタビューなどのプロのまとめ仕事でさえ、機械が書くのがふつうになった。音声認識だけなんて時代もあったけど、それだと、だらだら続く会話が文字に垂れ流されるだけだ。曖昧な会話の要約や、読みやすくするリライトまで、いまでは機械が担当する。
 機械化は、生産性向上そのものだといわれている。議題から外れた発言は自動的に削除される。議事録に残らない発言者は、無駄に時間を潰したものとみなされ、勤務評価が下がるのだ。結果的に会議は短くなった。
 噂に聞くむかしの会議は、人件費ばかりをすりつぶす最悪の時間浪費だった。それに比べれば、いまはすばらしい時代じゃないか。
 なのに、そんな議事録を人間が作るのだ。
 変でしょ。
 しかも、発言者は機械なのだ。
「意味が分からん、どういうこと」
 呆れた顔でいう。
「機械のしゃべる発言の議事録なのよ」
 そう、営利的な私企業の社内会議とは違う。人間の言論を機械が勝手に制限するのでは、当然のことながら批判が巻き起こる。最終判断を下すのは、あくまでも人間であるべきだ、という理屈がある。
 それを担保するために、議長と書記は人間が担うのだ。
「ははあ」
「理解できた?」
 友人はうんざりした顔でこう言う。
「よけい分かんなくなった」

 大学時代にかかわらず、昔の友人とはたまに会う。
 みんな常勤の職場がみつかったことを喜んでくれる。友人たちの多くは有期の仕事だったりするのだ。なんだか後ろめたい気分。
 わたしは文学部を出た。
 クリエイティブ・ライティング、文芸創作の修士号を持っている。
 作家になるつもりだったのかって、まあそう言われるよね。でもわたしは作家志望ではなかった。職業作家は絶滅危惧種で、もう食えないと分かっていたからだ。それでも、企業などで文章を書く能力は求められるだろうと、甘く考えていた。
 図書館司書や、博物館学芸員の資格も持っている。
 作家にならないとなると、このまま博士課程に進み大学に残る道がある。しかしポスト的にはさらに難しい。大学には作家くずれ(って言ったら悪いかな。兼業だね)の教授がたくさんいる。そう分かってから、資格だけは取ってきた。
 でも、生き残るためとか粋がっていたが、ニッチな資格ばかりでは、リスクヘッジになりえないと思い知らされる。
「文化を守る仕事なんだから、まず無くなることはないよ。図書館や博物館なんて全国どこにでもあるじゃん」
 実情は厳しい。お金のありそうな(実際は維持費でかつかつの)私設博物館は、学芸員を新規に採用しない。既存職員の雇用を守るので精一杯だ。職員は高齢化していくばかりだろうし、たぶん給料は上がらない。博士持ちが非常勤を務めているところもある。
 不安定な非正規職員など論外だなんて、贅沢をほざいてきた自分が恥ずかしい。
 文系の修士や博士は理系より稀少だけど、研究職、専門職を求めると、理系以上に行き場はないのだ。
 社会から文系の仕事は淘汰された。
 総務、経理、人事でさえ、社内に持たない会社が多い。コストセンター、つまり収益を生まない間接業務は、すべて機械に代行させる。人対人の営業やサービス業に就かないのなら、文系に仕事なんてない。わたしは接客が嫌いだ。そういうバイトすらしたことはない。
 傲慢じゃないよ、人間嫌いなもんでね。
 いや、それこそが傲慢なのか。
 実務から遠い学科で、文系冬の時代に就職できただけでもラッキーだと友人たちは言う。ラッキーなのは確かだ。採用は運が良かっただけなのだから。
 では、この仕事の中身はどうなのか。
 自分のスキルが生かされたかどうかを考えると……微妙だ。

 カラはひょろりと背が高い。言葉は少し早口で、相手かまわず喋り続ける傾向がある。白衣を着たり、あるいはラフな恰好で出てくる。
「この主張は、何ら学問的な背景を持たないね。考古学で出てくる固有名詞とか、生物学の専門用語を交えているが、使っている当人は意味が分かっちゃいない。少なくとも専門家じゃないだろう。それだけならいいが、意図的なのか無意識なのか、誤った使い方をする。意図的なら悪質だし、無意識なら軽率だよ。論理的な一貫性も見られない。無関係な要素を、さも関係あるように書いている」
 ポプは明るい色の服を着ている。季節に合わせ、よく似合う服を選んでくる。俗語を交えて、淀みなくしゃべる。
「この議論を主張しているのは、特定の政治団体ですね。その団体のマニフェストの中によく似た内容を見つけましたよ。百三十年前に作られた憲法や法律に則っていますが、よく考えないで継ぎ接ぎにしたせいでしょうね、条文間での辻褄が合わない。ただ、団体は集金力があります。パトロンがいるので、所属する政治家もずいぶんと多い。一方、一般市民のメンバーには、年齢、性別を含め偏りが見られます。層の広がりがありません。定期的な街頭活動でも、新規参加者が増加する兆しはないようです。飽きられています」
 ロウはスーツを着ている。スーツにも流行はあるが、もっとも保守的なデザインのものを着る。ゆったりと、一言一言確かめるように話す。。
「違法ではない。このような主張を取り締まる法律は、存在しないからである。流言飛語を制約する法律は、長い間議論されてはいるものの、恣意的に運用される危険性を看過できない。人権に関わる国際人権規約に違反するとの主張はあるが、国内においては規約はあくまでも理念であって、強制的な措置が執れる法律ではない」
 レグは目立たない服を着ている。ふだん着と言った方がよい。町中でよく聞くネタ話のような、感覚的な会話をする。
「こいつは怒らせようとしてるよね。怒れ怒れと煽ってるのよ。冷静な人だと表に出さないレベルなんだけど、怒りでたがが外れると、ケダモノの心に近いものになっちゃうわけ。なんだか分からない不安とか、そんなやつ。それがみんなの不満と共鳴し合って、何かをぶち壊したくなる。ぶっ壊して、ぶっ潰して、めちゃめちゃをしたくなるってこと」
 倫理委員会には四人の理事がいる。有識者=機械である。それぞれが厳密に学習内容を分離した、倫理判定専用の機械だ。
 学問を学習するカラ=機械がある。理科学だけでなく、人文や歴史、文学、経済などあらゆるアカデミックな論文を渉猟する。論文の体裁をなさないものは対象としない。
 メディアの論調を学習するポプ=機械がある。ネットや公表されているブログ類、印刷物、書物など、大衆に流布する意見の動向を観察する。
 法を担当するロウ=機械がある。国際法、諸外国の法、国内法、民法、刑法から地方条例まで、さまざまな法典と裁判記録を学習する。
 過去の伝統、レガシーを担当するレグ=機械がある。つかの間の現代ではなく、歴史的に変遷する常識を学び、大衆の根底にある無意識、いわゆるコモンセンスを学習する。コモンセンスは良識ばかりではない。
 それから議長がいる。わたしの上司で人間だ。
 機械たちは、それぞれユニークで見分け可能な外観をしている。ハードウェアのロボットではないから、外観が自在にできるのはメリットだろう。
 ただし、髪の色、肌の色、眼の色、すべてはニュートラル、ユニバーサルと呼ばれる中間的な色合いをしている。声は明瞭だが誰にも似ていない。年齢も性別も国籍も、明確に分からないよう作られている。皺は見られないので高齢者ではないようだが、かといって若者でもないのだ。
 議事はネットで見られるようにヴィジュアル化される。
 リアルな会議室に四人の理事=機械が座り、上座に議長=人間がいるように見える。違和感はない。
 ないけど、でも現実にはありえない顔ぶれだ。
 そう、グローバル化が進み、人種が混じり合い、百年くらいしたらみんなこんな顔になるのかも知れない。
 現実の人間をモデルにするとこうはいかない。肌の色や顔立ちひとつとっても、人種によって根拠が必要になる。白人風の東洋人だったら、今どきは民族差別か、人種差別で告発されてしまう。理事は人間じゃない。だから、まるでホワイトノイズのような無国籍、無性別、無人種であるのは不自然じゃない、というか、そう求められている。
 社会の底流に形を成さない不満が生まれるのは、いつの世でも同じだ。
 あいつらだけが得をしやがってとか、おれだけ貧乏くじを引いているという、不公平感、自分ははめられているという被害妄想は、大小は別にして誰でもが抱く負の感情だろう。
 世間はユートピアじゃないから、不満が出てきて当然だと思う。
 とはいえ、所詮は愚痴だ。ほんとうの悪意や、殺意を伴う憎悪ではない。気に食わない、好きじゃない程度の、ごく表面的な好悪なのだろう。その小さな好悪を凝集させなければ、騒ぎにさえしなければ、不和は奥底に留まり、表面にまで上がってこない。
 倫理委員会の役割はそこにある。
 委員会の活動の結果、世間では暴力、ヘイト、嫌がらせが明らかに減った。
 議事録は淡々としている。粛々と議事が進み、予想どおり妥当で、面白みはないが常識的な結論に至る。要因が陰謀なのか、差別や一方的な悪意なのかは問われない。問題のある言論を制限するという結論になる。
 でも、こういう従来型の議事録は人気がないんだよね。
 特定のマニアを除けば、ほとんどの人はアクセスしない。散発的に、偏向していると書き立てる記事が出ても、まったく盛り上がらない。

 そうだ、議長=人間の話もしておこう。
 就職をしたとき、最終面接で面接官として出てきたのが議長、いまの上司だ。知っている人だったから、とても驚いた。
 人事という職種が消えたいまの世の中では、就職はデータ化されたスキルシートでほぼ決まる。エントリー段階で、自動的に合否判定される。つまり、面接しないのが最近の企業なのだが、倫理委員会では人間による面接があった。出向者の集まりではなくて、独自に人を採るのだ。さんざん不採用を、それも一瞬でもらってきたわたしからすれば、そういう機会があるだけでも希望が持てた。
 いや、希望に根拠はなかったけど。
「最適だな。きみならできそうだ」
 知人も知人、わたしが学部生の時に教わっていた特任教授なのだった。
 創作科で有期の教授は、たいてい作家が兼任する。少しでも作品が売れた実績があり、専任教授のコネがあれば、三年くらいの任期で教授に就ける。少なくともわたしの大学はそういうシステムだった。特任教授の授業は実践的で面白かった。
「先生はこちらにお勤めなんですか」
「先生はやめてくれ。職員になってもう二年になる。いまここは文章を書ける人材を求めているからね」
「文章なんて、自動で書く時代でしょう」
「そういう文章じゃない。独創的な創作だよ、創作できることが大事なんだ」
「ええ? 創作ですか」
「フィクションを書くんだ」
「え、仕事でですか」
「もちろんだ。そもそもきみが最終面接まで進めたのはそのためだ」
「わたし作家志望じゃないですよ」
 間抜けな受け答えをした。それでも採用になった。

 それ以来わたしは作家である。
 学生のとき、課題で小説を書いたことはある。褒められた出来ではなかった。とはいえ、求められるフィクションとは、そんな意味での小説と違う。
 議事録をまとめる書記じゃなかったのかって、そう思うよね。ここでの書記は、発言内容をまとめただけじゃ済まないのだ。
 仕事は簡単ではない。
 機械は言論を規制する。そのための根拠を示す。示すのだが、それを理解するのが難しい。そもそも話し言葉じゃない。主な文献の集合とか、ネットから収集した文書の集合とか、さまざまな写真とか、一対一での対応関係がつかみにくいデータ(複数形)で提示してくる。
 機械の内部でどのような判断がなされるのか、いまでは技術的に解析ができるようになっているらしい。しかし、それは直感的には認識しがたい、数字や認識パターンでできている。専門的なツールを操れる、行動分析の専門家(BAT)だけしか分からない。そんなところに外注できないのが問題なのだ。
 数字や波形や図表、とか言われても。
「倫理委員会には説明責任があるからね。ところが、いまの議事録は箇条書きに近くて、読み手がさっぱり増えない。見やすいものに変えろという要望が強い。委員会はけっこう予算を使うから、もっとアピールする必要がある。いろいろ試みてきたが、やはり物語がいちばんと分かってきた。きみの採用理由だ。まず、わかりやすさが肝心だ。単にキーワードを羅列するのなら機械でもできる。それをかみ砕くのが人間だろう。さらに言えば、単なる文章では頭に入ってこない。物語性が必要になる。そこが、訓練を受けていない一般人ときみらとの違いだな」
「あの、物語という場合にプロットとか、シノプシスとかはあるのでしょうか」
「原作付きの脚色じゃないからな。それを作るところからが仕事だ」
 ないのか。
「あらすじもないとすると、もともとの趣旨を取り違えてしまう可能性があります」
「趣旨とはなんだ」
「制限を加える理由そのものです」
「制限を設けることは、既に機械が決定している。判断を下した素材の集合も提示される。その中間は自由に創作すればいい」
 自由に。
「創作ですか。でもそれが機械の考えと同じかどうかは……」
「機械に考えがあるわけがない。機械と人間とは違う。結論が同じであればそれでいい」
「つまり、その間は何でもいいと言うことでしょうか」
「何でもは極端だ。素材を使うという制約はある」
 お題をもらって、即興で書けということか。落語の大喜利みたい。
 笑い事じゃないけど、ほんとうにそんな仕事なのだった。

 委員会ができる前、ネットを含むメディアに対する倫理規定はすべてメディア側に委ねられていた。
 書いていいか悪いかは、まず書き手が決める。
 意見表明の段階なら何を言っても良い。道徳、倫理、公序良俗に反しようが個人の問題になる。しかし、公表されると責任が生じる。メディアでの公表可否は、媒体の持つ倫理規定に左右される。その後は世論が決めるのだが、世の流れは不安定だ。どんな批判が起こるか予測できない。
 言論の自由って、結局そういう問題をはらんでいる。
 公表を国家が統制すると、抑圧的、非民主的とされる。
 国の干渉がないのなら、掲載媒体としての判断の基準が重要になる。でも、ネットメディアは大きくなりすぎた。発言は多様化して、倫理を犯すものも出てくる。それを裁こうとする世論も多様に現われる。どこまで許されるのか、何が許されないか、簡単には分からなくなる。
 人の道に反しなければ良い、なんて言うけど、人の道って何だよ。
 しかも、国によっては、最大のメディアが外国製かつ私企業の製品ということもあった。倫理判定が、よその国の世論や価値観で決まったり、私企業の内部だけで隠れて行われるって、考えるまでもなくおかしい。
 ネットメディアはたびたびほんとうの騒乱、暴力の火元になった。
 きっかけとなる火種はもともとあったのだろう。しかし、火を付けたあと、大火事にまで広げるのはメディアのブースト効果だ。真実でも針小棒大化が含まれていたし、はじめから嘘や間違いが多いこともある。これが政治問題化すると、ますます何がほんとうか分からなくなる。反対陣営から見れば、相手の言うことはたいていフェイクに映る。
 若い国では騒動はすぐ暴動に変わる。インフラや経済が破壊され、たくさん人が死ぬ。無計画に国家を混乱させると、もっとも不利益を被るのは一般市民自身なのだ。
 外国のネットメディアが責任を取るなんてことはない。
 国家の混乱は当事国に責任があり、嘘や煽りを信用した責任は利用者側にある、というわけ。
 問題なのは、メディアが何を目指しているかだ。少なくとも、社会正義のためではない。エンゲージメント率、アクセス数の向上が、どの媒体でも最優先なのだ。
 見てもらった数を増やすってこと。
 ユーザがエキサイトすればするほど収益が上がる。ネットメディアは、独自に学習させた機械を最大限に利用する。
 どのように煽ればエンゲージメントが上がるかを学んでいる機械だ。
 すると、沈静化のフィードバックは働かず、増幅のフィードフォワードになって、話題は収束せずにどんどん拡散される。それを妨げる方向の倫理機械(いわゆるRAIと呼ばれるもの)は、当然のことながら二の次になる。営利企業であるメディアに、道徳心を頼るのは無理がある。
 そこで、外部に第三者の倫理委員会が作られた。
 委員会は「検閲機関」である。
 国家が関与しないから自由は守られたことになる、と言い訳しているが、こういう形の監視機構はいまではどの国にもある。
 そりゃ、外国の私企業に独立国の検閲=メディアのコントロールはさせたくないから。
 「検閲」はもともと珍しくない。民主国家インドでは、宗教的、道徳的な検閲が過去から行われてきた。アメリカでは巨額訴訟を免れるための自己検閲がある。懲罰的な賠償が認められたら、小さなメディアは消し飛んでしまう。損害賠償請求を避けるために、やばい意見を隠蔽するのだ。理由はどうあれ検閲には違いない。
 少なくとも、当事国では当事国の考えで倫理を規定すべきって、それなりの理屈だけど、既得権などの勝手な都合に基づくものが多い。
 今あるものを守るのが正義か、反対に破壊するのが正義か、どうだろうね。

 カラがマグカップを手に入室する。
「まったくだめだ」
 丸テーブルの周りを歩きながら、ぶつぶつと言う。
「お話にならない。論理がでたらめだ」
 レグが手を叩く。
「めずらしいね、お怒りじゃないの」
「こんなものをわたしに見せるな。時間の無駄だ」
「あらあら、お仕事なのに」
「きみで十分だろう」
 カラはポプに顔を向けて言った。
「ちょっと、十分ってどういう意味ですか。少なくとも上から目線の先生より、世間のことは分かってるつもりですけどね。確かによくあるロジックですよ。どんなサイトの情報なのか、どういう根拠なのか書いていない、見出しは派手で中身がない、著者が実在するかが怪しい、何時のことだかはっきりしない。読む側にも問題はあります。たちの悪いジョークネタかもしれないけどチェックしない、自分が偏っているなんて思いもしないし、専門家に確認なんてもちろんしない、というかできない。こういう基本が、そもそもできてないわけですよ」
「つまり、読み手は馬鹿なのか」
 レグが答える。
「馬鹿もいるかもしれないけど、ネットは反射神経を要求されるゲームだからね。考えてる余裕がないから、中身の真意なんかどうでもよくなる。自分の意に沿うかどうかだけだよ。意に沿えばいいねを押して、反すれば罵倒、結果として馬鹿な行動に見えるよね。しかも一度口にした以上、撤回できない人が多い。なぜかというと、撤回するとそれを材料に叩かれるからね」
 カラは苦々しくつぶやく。
「そういうのを馬鹿と言うんだ」
 ポプが続ける。
「画像がありますね。ずいぶん激しい弾圧があったように見えます」
 レグは皮肉っぽく答える。
「ネットの切り取られた画像は信用がおけないね。加工されていなくても、全体のごく一部だけという場合がある。大半は平和的で穏健なのに、一部過激化している部分だけを強調する、時間や場所がばらばらなものでも、集めて暴力が深刻なように見せる。特に手持ちカメラの場合は、遠近感が現場の見た目と変わってくる。あきらかに印象操作がされている」
 ロウは諦めたようにつぶやく。
「これも取り締まる手段がない。著作権のある画像を加工すれば犯罪だが、素人が撮った絵を恣意的につなぎ合わせるのは犯罪ではない。実写だとしても、キャプションだけで印象の誘導ができるわけだが、そういう操作も犯罪にはならない。政治的なメッセージは、特定の国では犯罪だが、別の国では英雄的な抵抗者の証しになる。何れにせよ、法の枠外になる」
「煽ってるのは明らかですけどね。これを見て冷静でいられる者はいない。暴力でも正当化される」
 議論を聞いていた議長が採決する。
「本件は社会不安を煽る内容と考えられる。本件に違法性はないため摘発、削除はしないが、露出回数の制限を設ける。また再配付不可とする」

「良くなってるんじゃないか」
「そうですか」
「ただし、全体の配分を考えた方がいいだろう。掴みがあって、伏線は半ばまでに仕込み、四分の三でどんでん返しを仕掛けて、結末につなげる、だよ。どんでん返しが弱いな。これでは読み手が飽きてしまう」
 なかなか上手くならない。
 擬人化された登場人物のセリフを決め、所作を決め、間合いを決め、あとは機械が映像化する。言葉を直し、議論の順序を変えたりする。作家と言っても、これは放送作家だなと思う。箇条書きの議事録を、ドラマの一シーンのように書き直していくのだ。
 とはいえ、だんだんと慣れてきた。
 制限の範囲はほとんどがパターン化しているようだった。ヘイトやデマ、暴力、犯罪教唆。定型化されたものはすぐ終わる。
 だが、ある内容が気になった。
 勤務している倫理委員会が入る建物は、官庁街のすぐ近くにある。そこに大きな通りがあるのだが、禁止映像のソースはその一画を写していた。
 違和感があったのは、バリケードが築かれ、ヘルメットを被った人々が火炎瓶のようなものを投げつける映像だった。短い動画フレームの中で、火災なのか催涙弾なのかの煙がいくつも立ち上り、殺伐とした光景が広がっている。車が燃えていた。次の瞬間、圧倒的な人数の警官が押し寄せ、バリケードは突破される。暴徒は次々と捕縛され、抵抗を封じるためか警棒で殴りつけられる。
 海外のニュースシーンが、ほんのすぐそこで再演されている。
「こんなことって、ありましたっけ。フェイクでしょうか」
「映像はつなぎ合わせだ。小さな衝突の映像をたくさん集めてきて一連の動きのように見せている」
 レグの発言をなぞるように上司は続けた。
「毎日通勤していて分かるだろう、どこも破壊されていないし騒乱もない」
「よその国のことかと思いました」
 通勤経路からは外れている。場所は分かるのだが、毎日通るわけではない。
 上司は気にしてないようだった。
「自由の国だからデモは許される。ただし、その前提に法がある。どんな国でも暴力は法的に許されない。厳しく取り締まられるから、広まらないだけだ」
 そうなんだろう。
 帰宅時に、遠回りで歩いてみた。敷石や舗装が新しいものに変わっている。ふつうに工事があったのと見分けは付かない。何かあったような痕跡は、どこにも残っていない。通行人は無関心に通り過ぎていく。
 自分だって無関心だった。
 制限された映像は拡散できない。拡散しない情報は、すぐに消滅してしまう。
 わたしと同様、大多数の人もおそらく気がつかないのだ。

 倫理委員会の中で、実際に会議が開かれることはない。本当の機械は実態を持たないソフトウェアで、物理的な発言はしないし、擬人的な性格も持たされていない。判定結果を伝えるだけだ。
 根拠になるデータはある。と言っても、(人間から見て)曖昧でよく分からないものばかりだ。わたしは分かる範囲でそれらを引用し、リライトする。ソース資料を読むことに時間を費やす。どう関係するのか、理解に苦しむものばかりだった。
 しかし、議論があったように見せればよいのだ。本当の理解は必要とされない。人が関与したエビデンスさえ残れば、仕事として認められる。
 ときどき、不安になる。
 わたしは作家を目指さなかった。だが、フィクションが嫌いだったわけではない。嫌いならクリエイティブ・ライティングなど選ばなかったろう。
 フィクションという虚構の世界に浸りきるのが好きだった。たくさんの人と共有できる物語が書けるのなら、作家を選ぶのも面白いだろう。そんなふうに漠然と思っていた。
 でもね、物語生成はすでに機械の領分だった。
 機械の生成するのはフォーミュラ・フィクションなので、人はもっと創造に富んだものが書ける、といまの上司である特任教授も講義の中では言った。だが、読み手にとって、作者が誰であれ(人間でなくても)関係ない。面白ければいいのだ。同一パターンで、読み飽きた物語でもかまわない。
 そうなると、勝てるのはごく一部の天才に限られる。
 人間にしか書けない議事録って、まるで絶滅危惧種の保護区だね。
 でも、そこに何の価値があるのだろう。
 何しろすべてが後付けなのだ。議長が(これも形式だけの)議事を進行する前に、すでに結論は出ている。それを人間に分かりやすく解説するのがこのリライトの目的だ。しかも、解説は本当のことではない。人が納得できるように改変されている、というか、捏造されたフィクションなのだ。大衆の価値観に合わせて作られた嘘だ。
 かつて、わたしがぼんやり憧れていた浸りきれる虚構ではない。
 だったら、フェイクを書く悪意の投稿者と同じではないのか。
 何度も言うけど、機械の中で何が起こっているのかは、専門家でもないわたしごときには理解できない。
 だから、わたしは虚構を書かざるを得ない。実話のように書く。
 これは真実に基づいた実話ではない。委員会の裁定は事実を見えなくする。騒乱の映像のように、誰も知らないものになる。
 そのかわり、平穏がもたらされる。
 わたしのフィクションは安定をもたらす。
 だれも死なないし、だれも傷つかない。
 正義と平和の担い手なのだ。
 そんな作家がこれまで存在したのか、みたいな。

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