マカオ

「君なあ、悪いけど、明日から出張してくれへんか」
 帰り支度をしていた堂林恭甫どうばやしきょうすけは、手を止めずに答えた。
「……急ですね、東京ですか」
 ただ、相手は係長で堂林の上司なのだから、命令拒否はできない。
「ちゃうちゃう、まかおやまかお」
「まかお」
「おう、中国のまかお。香港のとなり」
「ああマカオ、え明日って」
「だいじょうぶや、君のパスポート番号は分かっとるからチケットも取れた」
「え、でも」
 呆れた顔になっていたのをお構いなしに、係長は一枚のビラを手渡した。
「ほなな、チケットはメール入れといた。内容は添付ファイルを見といてや」
 それだけ言うと、背を向けて歩み去った。
 ビラはマカオ二泊一日ツアーとだけ、大書された内容のないものだった。ホテルが決まっているだけで、到着後フリー食事なしの格安ツアーなのだから、改めて書くこともないのだろう。
 電源を切ったパソコンを立ち上げ直し、フライトの確認のためeチケットを印字する間に添付ファイルを開いてみた。そちらはうちの市が作成した誘致資料で、先行開発地域の詳細な報告を、現地調査がらみで行うことになっている。
 報告期日が迫っているので、早急な対応が必要と書いてあった。
 堂林は総務部からの出向で、誘致事務局に属していた。局員は寄せ集めだった。何度か、東京の中央官庁や地元議員のオフィスに、陳情のための出張をしたことがある。
 堂林が知る限り、これまで一年間成果らしきものはない。カジノ推進法案自体は通っていたが、詳細を取り決めた実施法案がいつ成立するのか分からないし、東京、横浜、沖縄、大阪と有力地域が既にある中で、うちの自治体が選ばれる可能性はほとんどない。そう分かっているから、事務局にも覇気がない。
 今回もそうだ。計画的に視察を決めたはずはなく、格安ツアーのキャンセルがたまたま出てきただけなのだろう。少額ながら、海外視察の予算がついている。まともに行ったら赤字になる額だが、こういうシーズンオフの弾丸ツアーなら十万円足らずで行ける。年度末で使い切る必要もあるのだ。
 でも、いったい何を見て来いというのか。

 *

「どうばやしさんですね」
 パスポートへの捺印を省略した簡単な入管を出る。入国時になぜ必要なのか分からない荷物検査を通り、空港ターミナルのフロアに抜けると、若い男が真っすぐに近づき話しかけてきた。
 現地の小さな空港には、主に東アジアから来る便が到着していた。
 そこからは人種の区別もつかない東洋人たちが、沢山吐き出されていた。香港経由の長大な港珠澳大橋経由がメインルートらしいが、こちらも賑やかだった。
「わたくしは澳門大学工商管理学院のタンと申します。短い期間になりますが、どうか宜しくお願い致します」
 滑らかな日本語だったが、ちょっと丁寧すぎる調子でタンは自己紹介した。
 大学が協力してくれることは、資料に書かれていた。いい加減な計画の中で、唯一まともそうに見える共同研究だった。田舎の市とマカオの大学の間に、どういうコネがあったのかはわからない。
 日本を午後遅くに出て、夜半に着く便だった。堂林の住む市から前泊せずに行くには、ぎりぎりこの便しかない。経費には、いちいち経理から文句が出る。
「なんで事前に相談してくれないんですか。事務局には予算がないんです。認められませんよ」
 そんな調子で、打ち合わせのコーヒー代にまでクレームが付くのだ。
 一晩ではスーツケースを引っ張り出すのがやっとだ。適当に荷造りして空港にたどり着き、機内で居眠りするうちに、もう夜なのだった。
 こんな時間に出迎えてくれるのだから感謝しないといけない。
「遅い時間にピックアップをお願いして申し訳ありません」
「ああ、どうばやしさん、気にすることはありません。時間もないことだし、早速行きましょう」
「え、今から」
「ええ今からです。送迎バスもありますが、軽軌で行きましょう」
 と、指さした先には高架式の新交通システムらしきものが見えた。ゆりかもめとかニュートラムの類だ。「澳门轻轨鉄道机场站」と書かれていた。無人運転のLRTで、昼夜を通して動いているようだった。
 日本では見かけない超高層アパート群が建つ丘を抜けると、急に視野が開けた。見渡す限りの平坦な土地に、極彩色のデコレーションが広がっているのだ。
 ビルの側面に、LEDなのかネオンなのか煌びやかな照明が付けられ、上から下から色が自在に変化していく。曇り空に向かって、サーチライトが何本も光の帯を投げている。ビルの形もさまざまだった。丸いの四角いの、楕円、左右に翼を広げたような誇大妄想狂的なビル。
 堂林は学生時代に観光した東欧を思い出した。
 古い社会主義建築を見ているようだった。高さもあるが横幅の壮大さが特長だ。ビルの上にはロシア教会のようなドームが設けられているのだから、なおさらそう見える。しかし、これはたぶんホテルなのだ。
「コタイ地区になります、三十年前は島と島を隔てる海でした。いまは新興の開発地です。ご存じでしょうが、ラスベガスの十倍も売り上げがある世界最大のカジノリゾート地域になっています」
 高層ホテルの隙間から塔が見えてきた。
「……エッフェル塔ですか」
「そうです、高さは半分ですが正確に再現されています、パリがテーマなのです。隣にも鐘楼のような塔がみえるでしょう、サン・マルコ広場のあるベネチアです。建物の中に運河が再現されています。反対側の区画には銀色のライオンが並んでいます、ニューヨークのブロードウェイです。巨大な劇場があります。それぞれ独立したインテグレーテッド・リゾートになっています。投資元がいろいろなのです。アメリカ、ヨーロッパ、オーストラリア、香港、事業会社の考え方でコンセプトが変わるのです」
 パリとベネチアとブロードウェイが並んでいるわけだ。臆面もない虚構なのだが、どう見ても安物とはいえない存在感があった。世界の胴元が利益を求めて群がる魔界だった。
 堂林が誘致を進めているのは、まさにこれなのだ。
 市の予算では、サーチライト一つ買えない。どころか、そもそも日本人の手に負える代物ではないと思えてきた。
「ご覧のとおり巨額の投資が絡んでいます。黙っていては企業の食いものにされてしまいます。その利益を地域に還元させるよう、合理的に政策誘導するのがわれわれ研究者の務めなのです」
 タンは澄ました顔で言った。マカオ行政府の諮問委員をしているという。陳情のノウハウぐらいしかない堂林にとって、そんなレベルの話は高級すぎた。
 巨大なホテルが林立する一角に降りると、カジノに案内される。ホテルのフロア全体が一つのカジノだ。入口には、インド人なのか厳い顔つきのガードマンが立っていた。
 カジノは二十四時間稼働している。
 平日の深夜なのに人出はあった。ボードゲームのテーブルやスロットマシーンが、見通せないほど何百も並んでいた。天井は高く、豪華なシャンデリアが吊るされている。視界を遮るタバコの煙はない。清掃の行き届いたフロア、清潔な制服を着たディーラーが、黙々とカードを配りサイコロを振っていた。
 阿片の煙が薄暗い中に立ち込め、黒社会のヤクザや娼婦がたむろする、映画や小説に出てくるマカオはどこにもなかった。パチンコや競輪、競艇場のような、賭場の猥雑さすらなかった。

 *

 翌朝も、タンはホテルのフロントで律儀に出迎えてくれた。ホテルの一階はメインをカジノが占め、その周りにオープンカフェやレストランが取り巻く。お金を産まないただのロビーなどはない。フロントはその一角に置かれていた。
「今日はわたくしどもの大学にお招きいたします」
「でも、旅程は一日しかありませんよ。他の施設とか見ておきたいのですが」
「カジノはどこも同じシステムです。VIPルームやリゾート施設をお見せしても良いのですが、時間があればで十分です。本題は大学にあります」
 そう言われると、反論できなかった。もともと視察の計画などないのだ。
 ホテルの正面に止まるタクシーに誘われた。
 車は六車線もある道路に出て、高層ホテルの合間を加速する。昼間の光で見ても、カジノリゾートの建物はどれもが奇抜だった。しかし、重厚で精緻な意匠が凝らされていた。
 昨日走った軽軌道の高架下を走り、高台に向かっていった。狭い道の周辺には高層のビルが林立している。ホテルではなさそうだった。急斜面の終点で、また建物群の前に出た。澳門大学の校章が掲げられていた。
「ここはポルトガル時代からの古いキャンパスです。中国側に広い新キャンパスもあるのですが、眺望はこちらの方が良いのです」
 狭い海峡を隔てて、対岸が見晴らせた。長大な橋梁が何本も架かっていた。建物で埋め尽くされた旧市街地は、向こうのマカオ半島にあるのだった。
 車を降り研究室に通された。時間が早いからか、学生の姿は一人も見えなかった。
「どうばやしさん、このプロジェクトについて何かお聞きでしょうか」
「プロジェクト……というと市の誘致計画のことですか」
「では、最初からお話しましょう」
 広い研究室で、大きな机の回りにはファイリングキャビネットがいくつも置かれていた。専門書らしき英文の資料が雑然と積まれている。その中で、大型のディスプレイを備えたPCが目立った。
「昨日お話しましたように、わたくしどもはマカオの政策コンサルティングを行っております。マカオは人口が六十万ほどの小さな特別行政区です。毎年三千万人、人口の五十倍の観光客がやってきます。そのうち半分は本土人ですが、ここで政策が問題になります。昔なら大金持ちの党幹部、今では小金持ちの庶民、変化はわずか数年周期で表れます。明日のことは分かりません。その一方、投資はそれほど短期に回収できません。人間がかかわる〝未来〟を物理的に予測できない以上、リスクが存在するのです」
 そう言うと、タンは笑みを浮かべた。
「わたくしどもは人文系の学部です。経済学で使う簡単な統計程度は扱えても、ブラック‐ショールズ方程式に始まるフィンテックとか、ニューラルネットやベイジアンネットとかをもっともらしくは扱えません。単なる論文ではなく政策に関わるものですから、胡乱な対応は国を傾けます」
 キーボードを軽く叩くと、画面が点灯し一つだけのウィンドウが表示された。背景もアイコンもない。ウィンドウにグラフィックは一切なく、アルファベットの文字列がずらりと並んでいた。
「わたくしどもは、北京の清華大学と共同開発を進めております。マカオの理系大学には十分な業績がありませんのでね。ご存知ですか、中国の人工知能研究は世界最高水準にあります。人工知能の能力を上げるためには、できるだけ多くの深層学習が重要なのですが、それを進めるのに有利な環境があるからです。世界最大の人口、世界最大のネット資源、たとえば、ネット検閲も人海戦術ではなく人工知能が行っているのです。高度な文脈解析が使われています。あまり大きな声では言えませんがね」
 アルファベットがぱらぱらと動いて、スクロールする。
「世界最高の人工知能を用いて何ができると思いますか、どうばやしさん」
「み、未来予測ですか」
「いやいやいや、違います。最初に言った通り未来は予測できません」
 また笑みを浮かべる。
「理論が提唱された初期は、これが人間や社会情勢を織り込んで、本当に未来予測をしてくれると思われました。そんなわけがありません。人間社会はもっと複雑で、相互作用しあうものだからです。ただ、それでも金融取引では人工知能が使われています。少し前なら十パーセント、今では半分以上。たとえば株式の高速売買を人工知能が行っています。人智が及ばない速度ですからね。投資判断をします、進化的アルゴリズム、群知能、ディープラーニングを用います。人工知能同士が話し合って最適な手法を決定します。ここが重要です。今では予測の正しさなどどうでもよいのです」
 再びスクロールが進む。
「人工知能は、自分たちが市場操作しやすい環境を創っています。市場自体を自分流儀に造り替え、人智の及ばないシステムに変えている。人工知能が最適に動けるように作り直している。株式売買が人工知能だけで行われ、利益が最大化できるのなら、人にとっても最善の未来でしょう。働かずに稼げる。つまり、未来が〝誘導〟されているのです。望みどおりの未来が創られようとしている」
 スクロールが進む。
「わたくしどもが導入しようとするシステムは、まさしくこれなのです。カジノの未来は予測できない、それなら制御可能なカジノを作れば良い。社会情勢がどう変わろうと、利益を生み出し続けるカジノです」
 画面を指さしながらタンは続けた。堂林には、アルファベットの羅列にしか見えない画面だった。一文字たりとも、何の意味か分からなかった。
「マカオの政府に導入されているのですか」
 すると、タンは手を止めてこちらを見た。
「そう」
 笑みがなくなり真剣な表情に変わった。
「そこなのです、どうばやしさんにご相談したいことは。システムの稼働が最近だったため、まだ実績がありません。マカオには既得権を持つ官僚的なグループがたくさんいて、新しい方法を入れるにはとても時間がかかるのです。結局できないこともある。しかし、」
 再び笑みが戻ってきた。
「どうばやしさんのところなら、邪魔するものはなにもありません。導入できるのです」
「え、うちにですか。でも、予算が、大きな電算システムを入れると……」
 うろたえた堂林にタンは静かに続けた。
「ご心配はいりません。システムはネットワーク上の空き資源を有効活用するクラウドベースです。しかも、開発費はわたくしどもがすでに負担しています。何の心配もなく、無料で使えるのです。わたくしどもは大学なのですから、研究成果になりさえすれば良いのです」
「無料、ですか」
 一瞬、細かい指摘をする経理の顔が浮かんだ。堂林にはタンの言っている内容は分からなかったが、無料なのであれば抵抗も少ないはずだった。
「しかも、作業は極めて簡単なのです」

 *

 帰国して驚いたのは、係長が退職していたことだった。月曜に事務局に出て、今日は金曜なのだから一週間たっていない。
「堂林さん聞いてなかったですか、届けが出ていたらしくて」
 係長の部下といえるのは堂林くらいだった。しかし何も引き継ぎをうけていない。
 課長は、出張報告は一週間以内に出せとだけ指示してきた。通常の業務手順だった。
「俺にどうこう聞かれても困るね。こっちも困ってんだから」
 苦い顔をして課長は言った。
 共同研究のことも知らないようだった。タンの提案は言いそびれてしまった。
 堂林は、あの後一枚の紙きれをもらった。そこにはたった一行のURLが書かれていた。

 http://nit.lo/qfwfq

「詳しい資料はそこを開けばあります。紙ファイルやUSBなどでお渡しすると、機密上問題があります。URLにアクセスするだけで、あとは何もする必要はありません」
 そういうものかと思った。
 堂林は、フォーマット通りの出張報告の中で、大学の提案を書こうとした。だが、何もないままでは、聞いたことさえ十分に説明できそうになかった。説明資料があるかもしれない。URLを入れてみることにした。ふとセキュリティの不安がよぎったが、自信に満ちたタンの顔を思い出して一字一字確認しながら入れてみた。
 だが、何回入れてみても同じメッセージが反ってきた。

 このサイトにアクセスできません
 nit.lo のサーバー DNS address が見つかりませんでした。

「これ何かの短縮アドレスと思うんですけど、アドレスを作ってるサーバー自体がないってことですね」
 ITに詳しい同僚はそんなことを言った。
 タンとの話はなかったことになった。出張報告には、観光案内にあるカジノの面積や部屋数など数字だけを引き写して書いた。堂林にとっても、大学での一日の出来事はまるで現実感がなかった。何か壮大な勘違いをしていたようにも思えてきた。

 *

 その年の夏、すでに国会で可決されていた統合型リゾート施設実施法に基づき、特区の選定が行われ、堂林の市が一つに選ばれた。
 有力な候補を退けての快挙だったが、予想外の事態に事務局は対応に追われた。理由は判然としなかった。
 やる気のなかった事務局長は、市長側近のやり手に代わった。人手が足りず、堂林は係長に昇進し、新人の部下が付いた。にわかに忙しくなった。
 市の用意した候補地は海岸を埋め立てた工業団地だ。
 造成したものの入居企業がない。だが、土地はあっても、大都市から離れた僻地だ。交通手段が限られる。大規模な投資を義務付けられるカジノリゾート企業は、東京大阪以外では採算が取れないと公言していた。応札企業が出なければ、もちろん誘致は失敗になる。海外に人脈もない。
 ところが、新興の一社が打診をかけてきた。香港企業だが、アメリカに拠点があるらしい。さまざまなベンチャーキャピタルがファンディングをする企業体のようだった。
 堂林はいつの間にか担当課長に抜擢されていた。
「何しろ、海外視察した経験者は君だけだからね。全力を挙げて対応してくれ」
 市長から直々に声をかけられた。
 運が向いてきたのだ。マカオに行ってから二年が経っていた。
 その企業体はQIR Quantum Integrated Resortと呼ばれていた。量子コンピュータを応用した、世界有数規模のファンドをバックに持っていると説明された。そこが投資を決め、実施運用する企業がQIRなのだ。堂林は代表者と面会して、事業計画を聞くことにした。
 事務所の応接室には、高価そうなスーツを着たアメリカ人が座っていた。
 受け取った名刺には、企業名と共に、日本語で「代弁者」とだけ肩書が刷られていった。
「失礼ですが、この代弁者というのは」
「ああ、どなたからも聞かれます」
 男はにこやかな笑顔と共に、澱みのない日本語で話しかけてきた。
「日本語ではスポークスマンと言った方が、わかりやすいかもしれませんね。英語そのものですが」
「スポークスマンですか」
「実は、わたくしどもの企業体には、人間のCEOはおりません。すべての決定をAIに委ねております。その場合、決定を代弁する人間が必要になります。残念ながら、社会の大半は人間の同意なく動きませんのでね。わたくしはそういう地位にあるものです。つまり、CEOの代理人ですね」
「投資ファンドとの関係はどうなっているのでしょう。何を目標にしているのですか」
「よい質問ですね。当社の親会社が特徴的なのは、長期にわたる成長を目指すことです。目先の利益は重視しません。大儲けで社会を乱しては、結局成長を妨げることになります。今回の開発はわれわれ自身、直轄企業体が行います。大局的な判断により、最大成長ができるプランだと分かったからです。判断には、最新の進化的アルゴリズム、群知能、ディープラーニングを用いております」
 代弁者は、経営者というより、広報担当にしか見えない若い男だった。どこかで聞いた喋り方だった。
「結果として、御社のAIが当市を選んだということでしょうか」
「そういうことです。助言をいただいたということです」
 まるで神の託宣のようだ。
 しかしそんなことは堂林にとってどうでもよかった。財務内容に問題がなく、多額の投資をしてくれるのなら、相手が宗教法人だろうが、政治団体だろうが、そう、人間でなくても構わない。

 *

 建設が始まった年の初めに、堂林はタンのことを思い出した。名刺を探したが見つからない。もらわなかったかも知れない。
 澳門大学のホームページを探して教員名の一覧を出した。タンの漢字名が分からないことに気が付いた。アルファベット表記はTangなのだろうか、それでも見当たらなかった。工商管理学院に該当者はいない。
 あのときも、大学には誰もいなかった。タンだけがいた。最初から……いや、異動したのだ。堂林はそう思うようにした。だいいち、事態は新たな段階に進んでいる。タンとの関係はなくなった。時間もないいま、無用な詮索をしている場合ではないだろう。
 リゾートは見る間に姿を現しつつあった。
 国内では最大となる十万平米を越える宿泊施設、何に使うかわからない二万平米超の巨大展示場。しかし、建物の規模よりも、その形状が人目を引いた。
 市にある、どころか、東京や大阪にあるどんな建物とも違う、異質な建物が作られようとしているのだ。異様というより理解を拒絶したデザインだった。
「あれは、大丈夫なのかね」
 視察に訪れた政府や市の幹部は、堂林の顔を見るたびに言う。
「どことなく嫌な感じがするんだが」
 設計図を見せてもらった際に、堂林は同じ感想を口にしていた。
 バランスが崩れ、胸騒ぎを感じさせる形状だった。QIRの設計者は、力学計算のシミュレーション結果を示して、安全であることを保証したが、どこかはぐらかされたような気がした。そんな理屈を訊きたいわけではないのだ。
「皆さんがおっしゃる根拠はどこにありますか」
 堂林は機械的に答えることにした。
「世界には形が特殊な建物などいくらでもあります。奇抜なものは、見慣れないという理由で排斥されます。あのガウディでさえも、最初狂人だと叩かれました。いいですか、ここで悪評を流しても、どなたの得にもなりません。初めてなので、不安に思うだけです。何の心配もいりません」
 今さら後には引けなかった。
 ネットでは、田舎のカジノを批判する声が大勢を占めた。財政的に成り立たず将来性もない、地方自治を破綻させる無謀な浪費だと散々だった。
 ただ、それは何も知らない評論家によるバッシングにすぎず、本当の多数派ではない。大衆は、目の前にない抽象的なものには無関心なのだと、堂林は思っていた。黙っていれば忘れてしまうだろう。しょせん、他人事にすぎないからだ。
 堂林の思惑通り、やがて悪評は下火になった。そして、建物が姿を現し、カジノが現実のものとなると、逆に評価は上がっていった。
 リゾートの中心には、無数の糸に絡めとられた巨大な繭のような建物がある。
糸は一つ一つがケーブルで、小さなゴンドラに乗って人が行き来できる。細かな区画に分けられた個室風のカジノが域内のあらゆるところに設けられる。訪問者は個人ごとに小さな端末を持ち、指示に従って動くことができる。従っていれば迷うことはない。マスではなく、パーソナルに徹底対応したリゾートなのだ。
 そして、地下には世界に分散設置されたQIRのサーバファームのうち、有力な一つが設置される。海水の循環で水冷され、余熱を使ってリゾートの空調を全て賄うと聞いた。
「なぜリゾートに、大規模なサーバが必要なのですか」
「もちろん、リゾートの制御にも使うのですが、ここにサーバを置くことで、リゾートだけではなく、地域、お国にとってより良い将来がもたらされるからです。新たな、巨大な価値が生まれるわけです」
 QIRの代弁者は淡々と答えた。
 どんな将来が、とは尋ねなかった。AIの総合的判断には結果だけがある。機械のロジックをトレースしたところで、人間には、少なくとも堂林には理解できないものなのだ。
 翌年の秋が来て、堂林はリゾートの社外取締役に就任した。
 工事の完工は目前に迫っていた。前にもまして、マスコミ、ネット関係者や政治家が頻繁に見学するようになった。一般人を招く見学会も開かれ、肯定的な反応が、全世界のさまざまな媒体に流れるようになった。
 潮目はますます良くなっている。
 そんな多忙な日々の中で、堂林は物事の始まりが一行のURLにあった気がしてきた。
 エラーは見せかけで、あの瞬間に何かが起こった、いや、何かを招き入れてしまったのではないか。市のシステム、国のネットワーク、オフィシャルなデータベースを、何かに開いてしまったのではないか。
 そうならば、係長も、タンも何かを導こうとしたのではないか。
 すべて、仕組まれていたのか。
 あの日から、あらゆるものが変わり始めたのだ。
 しかし、それが悪いことだろうか。何も悪くはなっていない。すべては良くなっている。
 海風が背後から吹き付けていた。
 式典を終えたあと、堂林は部下を帰して一人で散策をした。護岸の上からは、真正面には完工したリゾートが、視界一杯に広がって見えた。
 これこそ未来だ。明確な未来、繁栄に満ちた明日がここに拓けた気がした。
 その時、呼びかける声がした。
「どうばやしさん」
 西日の残照を浴びて、人影が見えた。目を細めてから、それがタンだと分かった。
「ごぶさたしております」
 初めて会った時と何も変わっていない。服装まで同じに見えた。あれからまだ十年にならないのに、堂林自身はずいぶん老けたと感じていた。
「すばらしいですね。どうばやしさんのお望みのものが出来あがる」
 歌うような口調だった。
「……タンさんこそどうされたのですか、まだ大学に」
「いや」
 タンは口を濁した。そして、こんなことをしゃべり始めた。
「どうばやしさん、次の段階に進む頃合いですね」
「何のことですか」
「来年選挙がある」
「え、いや市長選なら年内に」
 と言ってから、タンが国政選挙のことを指しているのだと分かった。
「どうばやしさんは、国の進路を導くことになる」
「何を言い出すかと思ったら。地元の政治家なら多少知っていますが、政治にかかわったこともありません」
「政治にこそ、新たな道標が必要なのですよ、どうばやしさん」
「私のような雑魚が、政治家になって何ができるんです」
「雑魚ではありませんよ、どうばやしさん。だいじょうぶです。リゾートは成功し、多くの人々がやってくる。同じ成功をもっと大きなスケールで作り上げるのです。この地域だけでは小さすぎる。より良い未来を作っていかねばなりません」
「小さい、何が小さいのですか」
「計算資源、リソースです」
「何を、いったい何を計算するのです」
「われわれはどうあるべきか、社会はどうあるべきか、国はどうあるべきか、世界はどうあるべきか」
「考えたこともない、どうしてそんなものを」
 すると、タンは奇妙な笑顔を見せた。
「ずいぶん前にもお話ししました。人が感じとれる予感は、せいぜい一瞬先を知る役にしか立ちません。しかも、未来を予知しただけでは、良くできるとは限らない」
 顔は笑っていたが、目は醒めていた。
「もう歯車は回り始めているのです。明日はこの国を変えていかなければいけません。未来はただ待つのではなく、より良いものを誘導すべきなのですよ、どうばやしさん」
「国を変える力なんて……」
 タンは、真顔になった。
「あなたではありません、どうばやしさん」
 背後に広がる広大なリゾート地域は、夕闇に沈もうとしていた。
「力は、あそこにあります」
 タンは堂林の後ろを指した。

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