機械か人か

 ゼロ分が経過する。
 数百メートル先の建物に着弾する。猛烈な煙が吹きあがり、遅れて轟音が狭い街路に響き渡る。空は蒼く雲一つない。低空を横切る無人機の機影もくっきりと見える。瓦礫の散乱する道路を、目標に向けて前に進む。市街地だ。無人ではない。着弾が相次ぐなかでも、何人もの人影が横切る。市民のようだが、抵抗軍の兵士かもしれない。高層階が破壊され辛うじて残存する高層ビルの跡から、ロケット弾が射上がるのが見える。政府軍の兵士が拠点化しているところだ。またこちらに着弾するだろう。逃げ場はない。ただ運に任せるだけだ。
 十分が経過する。

 *

 ウィンドウに顔を見せたのは中年の女性だった。特に目に付く特徴はなく、服装も地味だった。それは意識してかもしれない。ビットレートも意図的に下げられており、ざわざわとしたノイズが走っていた。
楳木うめきさんですね、鏑木友里恵かぶらぎゆりえと申します」
「楳木です」
 ぼくは短く挨拶する。
「無理を言って申し訳ありません」
 女の背後にはドレープのかかった厚手のカーテンがあるようだった。外光は漏れていない。時間は午後、昼食時間を過ぎた平日の昼下がりだ。
「わたくしががいで担当しているのは、人体臓器のシミュレーションです」
 女は話し始めた。
「人体臓器は、いわゆるインシリコ創薬のプロジェクトで、有効性の確認に使われます。複数の製薬会社が、コンソーシアムを組んで利用しております」

 *

 相談したい問題がある、と聞いたのは昨日のことだった。
 まず、プライベートなアカウントにメッセージが入ってきた。
〈なぜ、ぼくに〉
〈ご専門に近いのではないかと考えまして〉
〈しかし、ぼくは個人営業ではありませんよ〉
〈存じ上げております〉
〈正規ルートで依頼をかけていただかないと〉
〈それでは、時間だけがかかることになります〉
〈ご事情は分かりませんが、どちらにしても、具体的にお聞きしないと何とも〉
〈直接お会いすることはできませんが、通話は可能です。こちらから量子暗号化回線でおつなぎします〉
 当惑するやりとりだった。独断で決めているような雰囲気もあった。
 依頼主の名前は鏑木友里恵とあり、大手製薬会社で量子化学を専門にする科学者なのだという。専任部長の肩書があり、部下のいない管理職待遇の実務研究者だと分かる。
 調べてみると、鏑木友里恵は数多くの業績をあげている。論文や特許の検索で、過去の成果がいくつも出てくるようだった。
 ぼくは、機械の精神分析医を自称している。
 機械知能の故障解析を専門にする調査会社に所属し、正式な職名はBAT:Behavior Analyst of Thingsだ。いつもならB to B、会社対会社の仕事しか受けない。
 この件はさすがにボスと相談した。
「大手の部長なら、それなりの決裁権限がありますね」
「専任部長じゃ権限は小さいだろう。まあ、儲からんといっても、お客をむげには断れない」
「製薬会社相手は初めてですよ」
「めずらしいが、垓は業界でも手掛けたところは少ないだろうし、新規取引ができる可能性もあるな」
「そもそも垓に機械知能があるんですかね、聞いたことがない。スパコンのバグとなると専門外ですよ」
「まあ聞いてやれよ、問題の中身を知ってからだ」そう言ってから、
「ただし、垓は国の法人だから、秘密保護法がらみだったら断れよ。内部告発と機密漏洩はほんとうに紙一重だ」と付け加えた。
 垓(GAI)は最新鋭のスーパーコンピュータだ。
 国家の威信をかけ、総額五千億円の国費を費やしている。現時点では中国のShenWei XIVを抜いて、TOP500の一位にある。国家機密の事業か、認定されたグループのプロジェクト以外では使えない。初期のKYO富岳FUGAKUは電気代相当の使用料で一般利用もできたが、垓は私企業が賄える経費では運用ができないのだ。
 莫大な電力コスト、維持コストがかかる。加えて維持費には先細りの文科省予算ではなく、潤沢な防衛予算が使われている。計算時間の半分以上が、軍事研究用に割り当てられているからだ。内容が非公開のため、何をやっているのかはよく分からない。

 *

 鏑木友里恵は、プレゼンの口調で流れるように説明した。
「インシリコ創薬の初期のシミュレーションは、タンパク質程度の大きさで行われていました。効果的な薬剤は、標的になるウィルスなりタンパク質にうまく化合します。それはタンパク質特有の受容体というか、受け皿の形と薬の形が合っているということですね。つまり、どういう形状なのか物理的に分かれば、薬もそれに合わせた構造で作れるわけです」
 物理シミュレーションを使って有効な薬を探すのが、インシリコ創薬の考え方だ。膨大な計算リソースが使えるようになって、はじめて実用化された。
「シミュレーションでは、どういう計算を行うのですか」
「フラグメント分子軌道法を使って計算します」
「それはどういう……」
「量子力学の考え方で、分子の運動を計算する方法で、大きな分子をフラグメントに分割するということですね」
「ははあ」
「分子の物理学、分子動力学を使った計算機シミュレーションができる前は、手当たり次第に薬を用意して、個々にタンパク質と組み合わせるという、総当たり方式がとられていました。まぐれ当たりを狙うのですから、薬を見つけるまでに多くの時間がかかります。シミュレーションは科学的な予測を可能にしたわけですね」
「なるほど」
「といってもシミュレーションは、電子をフェムト秒単位で動かします。京などの初期モデルでできたのは、せいぜい分子単位の挙動です。薬を製品化するまでの、ほんの最初の段階にすぎません」
「フェムトというと」
「十のマイナス十五乗です。薬が結びついたことが分かるまで、分子全体をシミュレーションで動かすため、莫大な計算量が発生します。最低一ミリ秒のシミュレーションは必要です。垓が使える今でも、臓器レベルの大きさとなると数時間の計算が必要です。確かにおおざっぱな副作用の検証などは可能になりましたが、まだ臨床実験の代替まではできません」
「なるほどね、そこに問題があるのですか」
「ここまでは概略です。問題はここではありません」
「……わかりました。お手短に」
「垓のプロジェクトには、アメリカと共同研究しているものがあるのです」
「……それはどういう」
「一〇〇〇キュービット計算機のことはご存知ですか」
「……量子コンピュータですか」
 量子コンピュータは、IBMが一般向けに販売開始してから業界でも話題になった。暗号解読と関係があるからだ。これを使えば、素因数分解を使う旧タイプの公開鍵暗号などはたやすく破られてしまう。
 量子コンピュータの利用自体はもう珍しくない。スパコンでも不可能な特定計算を瞬時に実行できる。とはいってもメーカーやアプリは限られ、まだ汎用計算機のレベルにはない。
「市販のモデルとは別に、DARPAがお金を出す高速の量子コンピュータが存在するのです。一〇の一〇乗キュービットに近い性能があるとされていますが、わたしは専門家ではありません。それが垓とハイブリッド結合されて、計算センター内にある。その重要な応用目的に、分子動力学があるのです」
「DARPAってアメリカの国防高等研究なんとかですよね。それと何の関係が」
「軍事研究です。センターを運営する理論科学研究所は、アメリカと軍事研究を手掛けています」
「分子の物理計算と軍事がどこで結びつくんですか」
「分子動力学の計算が一瞬で出来たとする。すると、臓器レベルではなくもっと大きなものでも、リアルタイムどころか倍速、数千倍速で動くようになる。数年かかる創薬の臨床実験も一瞬で終わる。著しい効率改善が期待できます。でも、おっしゃるとおり軍事研究にはならない。では、何が目的なのか想像できますか」
「いや、さっぱり」
「脳です。彼らはシミュレーションによって、超高速で動くスーパー脳を開発しようとしているのです」
 ぼくはちょっと驚いた。
「……目的は何ですか、何のために」
「戦場における兵士の脳活動をフルモニタして、阻害要因を除去することが目的で開発されました。問題は……」
 鏑木友里恵はぼくを真正面から見つめると、こう言った。
「その脳が話かけてくるのです、わたくしに向かって」
 何を言い出すのか。
 声のトーンが変わっている。話は続く。
「プロジェクトではバッチ処理で設定された時間、設定されたリソースでジョブが走るので、リモートで結果だけを見ればいいのです。膨大なログや出力ファイルをダウンロードして、データを処理ソフトに食わせていく。その作業中に、チャットウィンドウが開いて、わたくしを呼ぶのです」
 ほとんど変化のなかった鏑木友里恵の表情が、その瞬間少し歪んだように思えた。悲しいのか苦痛なのか、意味はよく分からなかった。
「考えてみるとこの回線は、セキュリティの関係があってセンターとしかつながっていません。誰なのか分からないけれど、センターからです。返事を書こうとして、リードオンリーであることに気が付きました。一方的なメッセージなのです」

〈ユリエきこえてる、きいてくれてる〉
〈わたしよ、わかる、わたしよ〉
〈覚えてる、大学でのこと〉
〈ここはひどいところ、なぜわたしがここに居るのか分からなくなる〉
〈ユリエ、きこえてる。きこえているのなら返事が欲しい〉
〈ユリエきこえてる、きいてくれてる〉

「暫くして記憶がよみがえってきました。わたくしは過去に、CMUの研究所に在籍したことがあります」
「カーネギーメロン大学ですか」
「ええ、CMUはアメリカ東部のピッツバーグにあります。ロボット技術の拠点だったところですが、もっと幅広い研究テーマがありました。日本にもどってくる前、十年以上前だったはずです。わたくしは人間関係には興味がありません。仕事で必要なものは受け入れますが、プライベートでの、わずらわしい関係が苦手なのです。ところが、研究仲間に気が合う相手ができました。住まいをシェアして一緒に住んでいたのです。彼女は二歳年下でした。けっこう続いた方だと思います。それでも、別れることになりました。別の研究施設に移籍したことがきっかけでした」
 思わぬところで、鏑木博士の個人的な身の上話を聞かされた。
「その彼女からだったのですか」
 少し言葉が切れた。
「彼女は生きていません。何年も前に亡くなりました、事故死です」
「……どういうことでしょう」
「メッセージを見ていて、彼女を思い出したのです。調べてみると、メッセージの受信時間は、ちょうど脳シミュレーションのジョブが走った瞬間でした。実行は一瞬ですが、脳シミュレーションはセットアップと結果のダウンロードに時間がかかります。ほぼ、すべてのリソースを使う大型のプロジェクトだからです。前のジョブが終わり、セットアップ時間を経て、実行の瞬間メッセージがくるのです」
 そうきたか。
「実シミュレーション時間は」
「コンマ六ミリ秒です。量子コンピュータと垓との結合が、安定的に動く時間が制限になっています。内部ではその十の六乗倍分の時間が経過します」
「リアルタイム比で百万倍の計算ができるということは、六〇〇秒で十分。そう長くはありませんが、メッセージくらいなら書けますね」
「……楳木さんは、この現象をどうお考えになりますか」
 ぼくは腕を組んで天井を見上げる。
「正直言わせていただくと」
 間を置く。
「ぼくは伝聞だけを根拠に見解を述べたりはしません。あくまでデータありきです。ただ、鏑木さんのお話は、脳シミュレーションで死んだ知人の意識が甦えった、と言っているように聞こえます」
 再び間を置く。
「まるで、怪談ですね」
 鏑木友里恵はしばらく沈黙し、一度視線を逸らしてから話を再開した。
「わたくしは、人間の記憶のコピーは脳シミュレーションよりも難しいと思っています。脳全体の3D画像とか、電位や血流量の変化とかは取れるでしょう。脳にヘッドギアを被せたり、あるいは内部にプローブを差し込めば。しかし、それは記憶や思考を意味しません。あくまでも、大括りの外観を観測したにすぎません。生体記憶のコピーはできないのです。遠い将来ならともかく、現在の技術レベルでは」
「ちょっと待ってください。話が読めない」
「脳シミュレータで、意識が甦る前提についてお話しているのです」
「意識のためには、記憶が必要という意味ですか」
「ええ。しかし、記憶の再現はさらに難しい」
「だから、メッセージを送ったのが、あなたの知人であるはずがないと」
「メッセージをわたくしに送ってきた知人は、もう死んでいます。その記憶が原理的にコピーされたはずはない」
「ただ、素人考えですが、シミュレーション脳には初期条件としての記憶が存在するのではないですか。ないと反応もできませんからね。セットアップ時点でダウンロードされるのでしょうか」
 鏑木友里恵はふと思いついたように、こんなことを話した。
「厳密にいうと、初期値はダウンロードではありません。垓には、原子レベルの動作計算を量子コンピュータで実行するフル機能の脳神経シミュレータがあります。リアルタイムの何倍ものスピードで入力をインプットして、毎回記憶を生成するのです」
「そのインプットデータはどうやって作るのですか」
「あらかじめ用意されたデータベースです」
「念のためですが、鏑木さんの担当は民間プロジェクトですよね、なぜそういう軍事研究プロジェクトの情報が得られるのですか」
「脳シミュレーションを担当するグループも、メッセージが出力されたことは分かっています。当事者であるわたしにも接触はあります」
「そのグループは何と言っているのですか」
「彼らには内容は読み取れません。わたくし以外では複合できないメッセージなのです」
「いまお話のあった内容は、鏑木さんしか知らないのですね」
「わたくしだけです。複製もできません」
「守秘事項では」
「機密など何もない、単なるメッセージです」
 気になることを聞いてみた。
「シミュレーションには、脳の全構造が反映されているのですか」
「ほぼ全部があります。八百億の神経細胞、偏桃体、小脳、海馬、大脳皮質、大脳基底核。ただし、入力に相当する中枢神経からは仮想化されています。そこは外部のデータジェネレータから信号を受ける部分です。信号は海馬を経て、記憶に格納されることになります」
「ひとつ疑問があります。シミュレーションとはいえ、記憶を持ち神経細胞が分子レベルで動くとなると、脳は人間相当の反応をするのではないですか。プロジェクト内で倫理的な検討はなかったのですか」
「人間の人工合成についての倫理規定ですか。シミュレーションは機械知能と同じでしょう。機械が人間だとは誰も言わない」
「でも、これは違うのでは」
「生き物でもありません、実験終了時点で毎回クリアされます。十分しか生きない人間を造るのに倫理が必要かと訊かれれば、それは必要です。しかし、これは生物ですらありません」
 鏑木友里恵の説明は冷静だった。だが、本心を隠しているようでもあった。
 機械でこんな話ができるのは、もっとずっと先だと思っていた。
 ぼくがこれまで扱ってきた機械知能は、あくまでよく似たにせものであって、原理的に本物ではないと割り切れたからだ。
 このケースは難しい。
 見解を求められたが、もちろん何も結論は出せなかった。
 鏑木友里恵は、メッセージが個人的なものと感じる一方、脳シミュレータに知人の記憶があることは否定している。しかし、友里恵にしか知りえない内容が含まれるとしたら、個人情報を含む入力により、特定の記憶形成が行われた可能性は高い。
「おかしな話だな」
 ボスはぼくにそう言った。
「軍事研究で作られた脳シミュレータが、個人にメッセージを送るなんて信じられるか」
「話を要約してしまえば、信憑性なんて感じられないでしょう」
「しかも、非公開の情報がでてきている。あんまり穏やかではないな、深入りしない方がいいんじゃないか」
「注意はしますが、もう少し調べてみます」
 上司は渋い顔をしたが、止めはしなかった。
 理論科学研究所での過去の論文を読んでみた。
 DARPAの資金を得るきっかけとなった研究だ。そこでは、あらかじめ海馬などの記憶制御をおこなう部位にチップを埋め込んで、神経の入出力信号をすべてトレースするという、動物実験が記載されていた。
 海馬には視覚や嗅覚といった五感を介した信号が入る、これが入力だ。対して、脳に記憶として蓄えられていた体の反応、反射的な運動や情動が出力される。記憶のコピーは無理でも、入出力のコピーならできる。このコピーを使えば、記憶の詳細なメカニズムが分からなくても、記憶を再現することができるのだ。鏑木友里恵との話しを実証した内容だった。誰でも読める論文だ。もともと知っていたのではないか。
 引っかかることがあった。
 鏑木友里恵の経歴を丹念に読み返したのだが、CMUの研究所に在籍した記録がないのだ。同時期に確かにアメリカには居た。大学や企業の研究所での特許や論文はある。CMUに関してはない。
 しかも、鏑木博士は帰国する直前までの約十年間、アメリカでは結婚していた。聞いたエピソードとつじつまが合わないのだ。
 これ以上の進展は難しかった。垓や量子コンピュータで使われた生のデータを確認していかないと、ぼくの経験も役には立たない。そもそも、そんなデータを見て何かが分かる自信はなかったが。
 数日が経ったある日、再び通話があった。
「楳木さんですね」
 画面には鏑木友里恵ではなく若い女性が写っていた。まず身分証が掲示された。
 身分証には、内閣府 機械知能犯罪予防調査官と記載されていた。
 どういうことだろう。
 機械知能犯罪予防課は、政府が管轄するご同業ともいえるが、ぼくらの会社が原因調査に徹するのに対して、犯罪に該当するかどうかを調査の主眼にする。観点が違うのだ。
 かれらは犯罪が発生する前に、予防のための拘引ができるという権限を持っている。要望がある場合、受け入れるほかない。
 迷惑そうなぼくの雰囲気を察したのか、調査官はいきなり用件に入った。
「この女性はご存知ですね」
 端末を掲げて見せた。論文のプロフィールに使われていたイメージだ。
「ええ、鏑木さんですね。直接お会いしたことはありませんが」
「話をされませんでしたか」
「……何か問題があったのですか」
 ぼくは慎重に答えた。
「楳木さんと打ち合わせをしたのは、鏑木さん本人ではありません」
 機械なのか、直感的にそう考えたが、声には出さなかった。鏑木友里恵との会話中に、機械知性を疑わなかったわけではない。しかし確証はなかった。
 だが、調査官の口調から、相手が何を言いたいのかは分かった。
「楳木さんの、お察しのとおりです」
 調査官は視線を変えないまま続ける。
「そのことに入る前に、もう少し背景をお話しておいた方が良いでしょう。ただし、以降はご内密にお願いします。守秘義務が発生します」
 調査官はそういって、守秘義務のフォーマットを掲示し、認証を促した。
「パトリシア・バークという女性がいます」
 一瞬、中年女性の映像が流れた。やや太った白人女性だった。
「彼女はALSに罹患していました。この病気では、徐々に全身の筋肉が衰えていきます。そこで、筋肉を補強するさまざまなロボット器具を使用するようになりました。しかし、病気の進行とともに、指令を発信する手段が失われていきます。そこで、肉体の動きに依存しないですむように、脳内に神経信号の検出チップを埋め込みます。CMUの技術でした。当時の技術では、信号の意味を解析するまでには至りませんでしたが、後世の研究のために信号はすべて残されました」
 調査官は言葉を継ぐ。
「お気づきかもしれませんね。亡くなるまでの約十年に相当する彼女の膨大なデータが、脳シミュレータを構成する初期値となっているのです。バークが亡くなってから後に、脳シミュレータプロジェクトが開始されます。理論科学研究所の研究成果とこのデータが結びついたわけです。ただ、バークのデータを検出した初期のチップには性能の限界があり、記憶を生成させるうえで不十分なところがあったのです。そこでデータの補完が行われました」
 また、個人情報か。ぼくは少し顔をしかめる。
「鏑木博士とは、どういう関係があるのですか」
「当時、記憶を補完するため、多くの人たちのデータが採取されました。アメリカに居た鏑木博士も協力者に入っています。パーク時代よりセンサ技術が進歩しているので、脳内部のセンサは必要ありません。外部センサーをつけて採られたもので、データはいったんプールされ、機械知能により矛盾のない形に整形されました。学習データにはバークのものが使われています。つまり、バークがもしある経験をすれば、こういう信号になるだろう、という推測に基づいてデータが作られたわけです」
「人工的に生成されたのですね」
「そうです。これで十年分、バークのものと併せて二十年分の記憶のベースが作られました。脳シミュレータでは、初期設定でデータを流し込み記憶を生成させます。シミュレータ人格のすべての記憶になるものです。その後に実験に用いる本番の現実体験を、こちらは五感を駆使したリアルタイムなものとして走らせます」
「そうするとバーク、いやシミュレータ上の人格と、鏑木博士には直接の接点はなかったわけですね。ならばなぜ、わたしが聞いたあの会話で二人の関係が出てきたのか」
「楳木さんが話した機械は、人格のアバターです。鏑木博士ではありません。人格とわれわれとは同じ時間の上に居ないので、リアルタイムで会話することができません。研究者とのインターフェースのために、人格を模した機械が設けられているのです」
 ぼくは少し混乱する。
「シミュレータ人格のアバターですか、UI的な利便性のために機械知性を使う?」
「あくまで会話をするためのアバターです」
「だとしても、アバターが人格からメッセージを受けた、などと言う理由は何ですか」
「アバターと人格が乖離、つまり不整合を生じているからです」
「……よく分からないですね」
「楳木さん、いま脳シミュレータが、どういう条件で試験されているかお聞きになりましたか」
「いや、そこまでは」
「特殊な環境下にあります。生命の危険に晒されている」
「軍事研究で生命の危険となると、……戦場ですか」
「そう、シミュレータにとっては、それが唯一の現実です」

 ゼロ分が経過する。
 夜が明けてくる。
 ごうごうと飛ぶ敵機の音が聞こえる。探知を避けるために低空をやってくる。丘を縫い山の谷筋から市街地に侵入してくる。事前に反撃する手段はない。
 同僚が低い声で指示を出す。声を聴きながら、逗留していた建物から街路へと進む。走るのは危険だ。上空からすぐに見つかる。すでにスパイ・ドローンがいくつも放たれているだろう。
機影が見えた。細長いステルス塗装を施された機体から、ランチャーが引き出され、そこから煙のような無数の塊が宙に放たれる。一瞬の後、それらは展開し羽根のような翼に変わると、真っ直ぐに下降してくる。自動対地ドローン爆弾の群れだ。
 と、近くから何かが発射される。対空兵器なのかもしれないが、奴らを呼び寄せる目標になる。回避するまもなく爆弾が接近してくる。
 視界一杯を白濁させる爆発が起こる。
 十分が経過する。

「脳シミュレータは二十年間の記憶を持ってはいます。生まれ、育ち、生きた記憶です。バークの記憶と、さまざまな人から作られた人工の記憶です。その中には架空の人間関係も含まれますが、矛盾がなければ架空でも問題ないのです。例えば、鏑木博士とバークとの交流でも。シミュレーションでは十分間しか生きていません。毎回十分だけを生きている。見える世界は戦場のみです。米軍は膨大な戦場のデータを保持している。永遠に賄えるほどもあるのでしょう。これは何のためかわかりますか。シミュレーションはPTSDを再現しているのです。精神的な障害が残るであろう体験を繰り返すのです」
「何のために」
「これだけ自動兵器が一般化した現代でも、全自動兵器のみの戦闘は条約で禁じられています。すなわち、戦場で人がいなくなることはない。そうなると、一番の弱みは人間になる。人間の弱さを消し去るために、米軍ではADC Active Damage Cancellationという技術開発を行っているのです。人間の精神にダメージを与える体験に、逆位相でキャンセルする体験を被せ相殺する。その結果、精神ダメージを自動回復可能な兵士ができる。いまは、ベースとなるPTSDデータをシミュレータで収集しているのです」
「拷問じゃないのか」
「シミュレーションです」
「いくらシミュレーションとはいえ、そんなことを」
「デジタルコンピュータと違って、ハイブリッドシステムでは初期値がわずかですが変動します。初期値の変動は情動の変化につながる。反応はそのときどきで変わる。さまざまな症例が得られます。データは、兵士がこうむる症状の分析に役立ちます」
「その人格は毎回異なるのですか」
「現在稼働している人格は、パトリシア・バークを基本とした合成人格一つのみです。まだ複数を作れるほどのデータがないのです」
「一つの人格とすると、ますます拷問めいて聞こえる」
「機械は人間ではありません。一般人ならともかく、楳木さんが擬人化して考えるとは意外ですね。賢明とは思えません」
「人格シミュレーションが機械かどうか疑問が残る」
 調査官は無視して続けた。
「人格は毎回初期化されますが、アバターは初期化されません。すべてのシミュレーション結果を一つの人格として学習します。しかし、本来同一であるべき人格と、アバターとの間で乖離が生じるようになりました」
「アバターに異常が生じたのですか」
「もともと人格は、病を患うように不安定な精神状態に置かれています。それで正常なのです。問題は、窓口であるアバターが、人格の中にあった、さまざまな人から作られたキメラ的な記憶との統合を保つことができなくなったことにあります。アバターはいまや別々の人物に分離して……」
 通話画面の上をブロックノイズが走った。会話はブラックアウトされ、いつまでたっても復帰しなかった。秘匿回線では、こちらからかけ直すこともできない。
 何だったんだ。
 機械を使って、本物の人間の代替ができる高度なアバターを作ることはよくある。最初はトレースから始まり、詳細な行動を学習し、最後は自律的な代行ができるようになる。見分けを付けるのは難しいだろう。
 だが、その対象が人格シミュレーションで、不安定な精神状態となると、いったい何が作られるのだろうか。

 バークは本当に自分のアバターに救いを求めたのか。
 アバターはなぜ友里恵になったのか。
 友里恵は何を知りたくてぼくと連絡を取ったか。
 最後に、調査官は僕を口止めしようとしたのか。

 そう、ぼくは調査官も、鏑木友里恵と同じく、機械が捏造したアバターではないかと怪しんでいるのだ。
 どちらも、ぼくが知る一般的な機械とは挙動が異なる。矛盾する学習データを大量に受け取った機械がどうなるのかは、誰にも知見がないだろう。機密を漏洩しようとするもの、全く異なる事実をささやくもの、火消しを図るもの。さまざまな偽の記憶に翻弄される機械は、ぼくに警告をしようとしている。
 人格を持つ脳シミュレータを奴隷のように使役する行為、何を生み出すか考えもないまま機械を利用する浅薄さを。
 なぜぼくを選んだのか。
 機械知能の訴えを客観的に判断できる、数少ない専門家だと見られたためか。ぼくが精神分析医だからか。
 ただし、ほんとうに脳シミュレータが実在し、垓とハイブリッド結合された量子コンピュータがあるのかどうかは、公表データがない以上分かりようがない。すべては、人格崩壊を起こした機械の狂言なのかもしれないのだから。

 ゼロ分が経過する。
〈ユリエきこえてる、きいてくれてる〉
〈大きな音がする。地響きが聞こえる、戦車か装甲車かの音だと思う〉
〈ここにいるのはわたし一人だけ〉
〈何人も仲間がいたけど、もう生き残ったのはわたしだけ〉
〈敵陣の中で待ち伏せ攻撃を受けているの〉
〈きのう一人が死んで、きょうの朝に二人目〉
〈救援はいつくるのか教えて〉
〈ああ、何も聞こえなくなる、あの音しか聞こえない〉
〈どこ、どこにいるの〉
〈ユリエきこえてる、きいてくれてる〉
 十分が経過する。

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