匣(はこ)

 その建物は、路地を抜けたどん詰まりにある。
 築半世紀を経た住宅が多い宅地の一画だ。居住者の多くは高齢者だと聞く。もともと近郊農家の土地で、工場労働者のためのベッドタウンのような売られ方をした。それでも全部は売れず、放置された空き地が目立つ。大量の人を抱えた工場が撤退した後だから、何かが建つことはもうないだろう。
 ただ、路地の周辺はさらに古い。前世紀半ばのしろもので、老朽化した木造家屋ばかりが並ぶ。廃屋とまではいかないが、人の気配がない。空き家なのかもしれない。
 その建物は、奥行きの深い直方体の形をしている。
 まるで「匣」だ。庭の大半を占める大きさに建てられている。
 こちらから見た壁面には一切の窓がない。窓の庇に相当するものがないから、屋根の軒まで二階分ある平らな壁が、訪問者を威圧するように立ち上がって見える。もともと白かったらしい外壁は、風雨にさらされ黒ずんで見えた。
 すぐ隣は母屋なのだろう。民家としては大きな造りだが、周囲と同じくらい古びていた。庭の大半を占める匣のせいで、日当たりが悪くなったのか傷みが進んでいる。匣は比較的新しい。それでも、通り抜けてきた住宅街並みの年月は経っていそうだった。
「ここって、医学研究所じゃないですよね」
 小羽は嬉しそうにつぶやく。
「……ただの一般住宅だ」
 なに言ってんだ、と榎田は怪訝そうな顔で答える。
「ああ、まあ、分かってますけどね」
「中に入れるかどうかが問題だな」
 母屋のガラス引き戸に手をかける。
 鍵はかかっていなかった。扉はするすると開くのだった。
 榎田と小羽は、斡社あっしゃ市役所の環境課に勤務している。
 正規職員に準じる扱いではあるが、契約上は請負の個人事業主だ。高齢老人が多く、税収が減少する斡社市には予算がない。環境課の大半の職員は契約社員になっている。汚れ仕事というと語弊があるが、持ち主の分からない空き家、ゴミ屋敷、事故物件の整理が仕事なのだ。市内には該当する家屋が大量にある。業務は増える一方で減る傾向はない。
 法律が変更され、一定の要件を満たした家屋は、たとえ個人財産であっても役所の告知だけで処分できるようになった。それでも、役所が動くためにはいくつかの条件がある。彼らの仕事は、要件を整えることだ。
「失礼します、どなたか居られませんか」声をかける。大きめの声だった。
「斡社市環境課調査担当の、榎田と小羽と申します」
 しばらく待つ。
「ご返事がないようですので、条例に基づき調査に入らせていただきます」
 榎田は、ヘルメットに内蔵されたイベントレコーダーに、音声が入っていることを確認してから玄関に入る。家屋への調査のための立ち入りは、事前通知してあれば問題ない。
 通知は「今さっき」したことになる。
 床は埃が積もっていた。二人は、あらかじめ用意した上履きにはき替え、中に上がりこむ。
「独居ですよね」小羽が確かめるように訊く。
「そう、婚姻の記録がないし、事実婚の権利譲渡手続きもない。ずっとそうだった」
 昨年の国勢調査で調べた結果では、国民の生涯独身率は三割を越えている。独居であること自体は何も珍しくない。
 廊下のスイッチをさぐると、天井の照明が灯った。電気は生きているようだった。口座が空になって停電のケースも多い。何れにしても、死亡が確定すれば止められてしまうのだが。
「めったに会わないんだけど、月に一回くらい挨拶はしていた」
 そんな通報があった。自治会長だという老人からだ。
「このごろ会わなくなった。訪ねてみたんだが応答がない。やばいんじゃないのかな」
 独居者は長生きするほど、孤独死の可能性が高まる。親はとっくに亡くなり、兄弟や親類との交流は途絶えている。子供は当然おらず、同年代の友人とはもう音信がない。近所付き合いも稀薄になる。入院でもしていない限り、看取られずに死ぬしかないわけだ。
 そもそも七十五歳を越えると、在宅医療以外の選択肢が無くなる。健康保険法の改正で、長期入院が保険の対象外となったからだ。保護されるのは保険制度であって老人ではない。
 小羽は、ここに住んでいた老人の名前を知っていた。
「一部では有名なコレクターでしたからね、塩田さんは」
 手前の部屋は物置だったのか、和室に箪笥や収納品の類が雑然と詰め込まれていた。雨戸は閉めきられたままで、灯りをつけふすまを開けても薄暗いままだ。
「生活していた跡はありますが」
 小羽は小声で言う。
「居間があるだろう」
 榎田は廊下の先を指した。
 一人で住むには広すぎる家だった。突き当りにある居間は、さらに混沌としていた。衣類や日用品類が、でたらめに積み上げられている。
 掃除は、ほとんど行われていなかったようだ。歩くだけで埃が舞い上がる。ただ、異臭はなく生ゴミ類は目につかない。ゴミ屋敷となると、踏み入ることさえできないことも珍しくない。彼らがヘルメットを常備するのは、実際に危険が伴うからだ。
「ふつうの独居老人だったようですね、そんな生活感がします」
「孤独死パターンだな」
 榎田は顔をしかめる。
 だが、居間やふろ場を確認しても、肝心の塩田はいなかった。流し台に皿の類が残されていたが、放置されてから相当の時間が過ぎているようだった。
「外に出たままですかね」
「徘徊か。まあそうなら、俺らの管轄じゃなくなる」
 布団の敷かれた母屋の二階や裏口の外など、家中を一通り回ったが老人は見つからない。ただ、認知症という報告もない。安心はできなかった。
「いよいよ、あの匣ですね」
 小羽は嬉しそうに言った。
 鍵を探すのに手間取ったが、玄関の脇に無造作に吊るしてあった。二人は匣の回りを一周してみた。思ったよりも大きい。土蔵のような雰囲気があった。
 窓がない。道路側だけでなく、周囲のどこにも窓が一切ないのだ。
 鍵を開きドアを引くと、フロアの灯りが自動的に点灯した。冷たい昼光色のランプだ。すると、人影のようなものが見えた。ぎくりとしてよく見ると、それはスケルトンなのだ。
「こんなところに」榎田が意外そうに口にする。
 スケルトンは介護用の半自動補助器具だ。
 自立するが、背中側から脚や腕に装着して使用する。重量を伴う作業のための、いわゆる外骨格だ。筋肉の動きを検知して、数十倍に増幅する機能がある。もともとは、介護士が施設で使うように開発されたものだった。まだ高価だが、筋肉の衰えた老人が個人で使うこともある。そのスケルトンが自立したまま置かれている。
「本ですよ、本の運搬用じゃないですかね。ひと箱二十キロもある本は、年寄には運べませんからね」
 小羽が言う。
 匣の内部はひと部屋のフロアになっていた。床はフローリングで、陽に褪せることはないため、まだ真新しく見えた。それよりも背後にあるものが気になった。
 二メートル半ほどの天井まで届く、スチール製の大型ラックが並んでいる。一つではなく、それが何連も密集して並んでいた。
「大学の図書館とかにあるやつですね」
 小羽が言う。
「いや、見たことはないけどな」
 榎田は周りを見回しながら答えた。
 ラックはレールの上に乗っている。片側に寄せられているが、手動で動かすもののようだった。押してみると結構な重量がある。九〇歳の老人にはそもそも無理な重さではないか。スケルトンの存在する意味が分かる。
 ラックは一五本一組で三列に並んでいる。各ラックの棚の前後には、びっしりと本が収納されていた。榎田には、何の本なのか、本の並びに意味があるのかも良く分からない。
「これで有名だったのか」
 呆れたように言う。
「本棚の数というより、中身ですね。今世紀に入って出た主要なライトノベルが、ほぼ集められているといわれています。この分野はコレクターが少ないうえに、一時期年に数千冊も出ていたらしくて、乱売のあまり散逸しているのです」
 小羽は得意そうにしゃべった。
「そんなに値打ちがあるものなのか」
「どうでしょうかね。紙の本の流通量自体が減って、もうピークの十分の一も出回っていない。希少性が高まったといえるかもしれないが、書籍のコレクターはそれ以上に減っている、となると、金銭価値は下がっているでしょうね」
「あんたもその仲間か」
 榎田がおかしそうに言う。
「あ、いや、まあね」
 小羽は言葉を濁した。
 少なくともここだけは、母屋と違ってメンテナンスがされてきたようだった。空調が動いている。目立つ埃もない。
「階段があるな、二階だけじゃないのかな。下向きもある」
 地下室があるようだった。
 先に二階の様子を見てくると言うと、小羽が階段を上がっていった。
「同じ構造ですね、こちらはマンガがびっしりです。アメコミまであるな、これは古そうだ」
 しばらくして声がした。
「本の話はいいから、塩田さんはどうした」
「誰もいません」
 すると、地下か。榎田は思った。
「スケルトンがここにある。自力で降りようとして、足を滑らし落ちたのかもしれない」
 LED電球に照らされた階段は、真新しく傷一つ見られない。事故が起こった痕跡はなかった。ゆっくりと降りていき、踊り場を巡ると上階と同じ構造が広がっていた。三列に並ぶ移動書庫だ。
「ここも本か。呆れるくらいあるな」
 棚の本は一階にあるものより古いものが多い。背表紙の傷みや、日焼けしたものもある。ここに陽差しはないから、収められる前からそうなのだろう。ちょうど棚の高さが単行本ぎりぎりくらいで、そこに隙間なく詰め込まれているのだ。ラックの間に人が挟まれていないか、一つ一つ確認する。何もない。
「ちょっと種類が違ってきましたね。明らかに古書が多い。これがコレクターのコレクターというやつでしょうね」
 降りてきた小羽がつぶやく。
「どういう意味だ」
「引き取り手のないコレクターの本を、コレクションしているんですよ。書籍のコレクターは、たいてい独身かつ老人です。コレクターが死ぬと本だけが残る。膨大な本が残っても、親族は引き取りたがらない。売ったところで、財産的な値打ちなどあるわけがないので二束三文、故人が浮かばれませんよね。そこで、本のサンクチュアリができた。塩田さんは、こういうものを一括して受け入れていたんですね。前世紀に天理大学の付属図書館が、財閥解体にともなうコレクション放出を引き受けたことがある、その手法にならっています」
「いつごろの話なんだ」
 大げさな説明に辟易しながら榎田は訊いた。
「つい最近までですね。だいたい独身のコレクターなんて不健康なので、ここの塩田さんよりも先に死んでしまう。わたしが知っている有名どころなんかは、もうみんなお亡くなりでしょう」
「しかし、コレクターの本をまた個人が集めても意味がないだろう。死蔵されるのなら、散逸と何が違うんだ。図書館に寄付するのならまだしも」
「図書館は個人の寄付を嫌いますからね。名のある人でも怪しいのに、無名のコレクターの古本じゃ展示する価値もない。だいいち、図書館の役割を勘違いしている人が多すぎます。大半の図書館は本を収蔵するのが目的ではなく、市民サービスが仕事ですからね。快適な環境で、比較的新しい話題書を提供することを、市民自身が求めています」
「本を集めるところじゃないのか」
「一部の図書館は確かにそうですね。国会図書館とか。でも、金のない自治体の図書館は、貸本と休憩スペースの提供ぐらいしかできません。行ってみたら分かります。老人が本を読むでもなく昼寝しています。学校が終わる時刻になると、今度は学生の勉強スペースになって、やっぱり本は読まれません。そんなところに本を寄贈しても処分されるのがオチです」
「これ全部がコレクターの遺品か……」
「何人分でしょうかね、コレクターというからには、一人数万冊が常識です。でも、これでは、」
 小羽はそういうと、階段をのぞきこみ、
「まだ下がありますね。このフロアだけじゃ足りないと思っていたので、そりゃそうですね」
 榎田は、今降りてきたのと変わらない下り階段が、さらに続くのを見て薄気味の悪さを覚えた。
 地下二階も同じだった。無機質な金属ラックが冷たく並んでいる。コレクターの巣窟というより、まるで倉庫のようだ。
「ふつうのコレクターだと、不統一で大ぶりの本棚が壁一面隙間なく置かれ、はみ出した本が床一面にあって、天井の高さまで平積みとかがふつうです。奥の本を取ろうとしても足場がない。どこに何があるのか、所有者本人でさえ判然としない。本でできた堆塵館、ゴミ屋敷ですよ。中には格好から入る人もいて、重厚なガラス扉つきの本棚で統一してみたり、螺旋階段の周囲を円筒状の本棚にしたり、住居空間の壁すべてが本棚になっていたりとかで、容れ物の場合は個性が出てくるんですが……」
 小羽は陶酔したような口調で続ける。
「ここは違いますね、無個性だ。機械的機能的で、家庭的な温かみなど全くなくて、ただ在る。かといって、図書館にある収納庫のようなインデクス済みの無機質さとは違う」
 このフロアには洋書がたくさんあった。金箔が箔押しされ、背表紙が立体的に細工された重厚な装丁のハードカバーや、横積みされたペーパーバック。背に皺が寄り、読み古されたものから、新本なのかつやつやした光沢のもの、薄汚く汚れたものまでひと棚両面四列に、数えきれないほど詰められていた。ロゴやカラーリングは全く統一がなく、榎田には何語で書いてあるのかさえ分からなかった。空調があるのに、すえた紙の匂いがした。
「洋書は紙質が良くないし、古い紙は劣化しますからね」
 小羽はあたり前のように言った。
 地下三階は雑誌だった。中綴じのものは横に積み重ねられ、背表紙が見えるものは書籍と同じように並べられていた。バックナンバーがそろっているようだった。何十年分かがまとまったものから、数号しかないものもある。大きさは写真の載った大判からふつうの雑誌サイズまでさまざまだ。
「雑誌なんて集める意味があるのか。こんなものこそ読み捨てだろう」
「ここにあるのは専門雑誌ですよ。いま現役で残っているものはないと思います。大半は廃刊になったか紙版がなくなっています。廃刊したものはコンプリート出来ますからね」
 小羽はそれが答えのように言う。
「読み捨てと言われましたが、確かに金銭価値はありませんね。お金じゃない価値を見出しているわけです」
「これだけあったら全部読むなんてできない。読めない上に価値もない。何が面白くて集めているのか分からんね」
「コレクターはコレクションするからコレクターなのです。自己完結している。たとえば、こんな理由付けをつけます。本は消耗品である。自分が買わないと廃棄されるかもしれない。持っているか怪しい本は必ず買います。持っていると分かっていても、このまま朽ちさせるのが惜しいと理由をつけて買います。手元にあれば、どこにあるか分からなくてもいつかは見つかる。ないと可能性がゼロになる。ゼロは無だ。無と有の差は無限大になる、つまり無限大の安心につながる」
「どこにあるかも分からないのに、買って安心なんて身勝手そのものだ。そもそも、いったい何冊あれば安心できる」
 榎田は思わず語気を強める。
「ここまでで、少なくとも二十五万冊はありますね。故人ですが、澁澤龍彦で一万冊、草森紳一で四万冊、松岡正剛が六万冊、日下三蔵が十万冊、豪華な電動移動書庫があった渡部昇一ですら十五万冊しか持っていなかった」
「中身が違うだろうけどな。有名人なら本を書いているんだろう、アウトプットのために本を集めたともいえる」
「アウトプットなんて大したことありません。百冊二百冊書いたとしても、元が一万冊じゃ圧倒的に少ない。かれらは有名になる前から、いかがわしい本のコレクターだったのです。ここはそれらを凌駕する、世界有数のジャンク本コレクションなのです」
 何を根拠に世界有数などと言っているのか、榎田は不審に思ったが何も言わなかった。
「小羽は塩田さんと会ったことがあるのか」
「ええ、三十年以上も前、この書庫ができる前の話ですがね」
「変人なんだろう」
「ふつうの人ですよ。ちょっと強引なしゃべり方をする人でしたけど、人の言うことも聞いてくれましたしね。同好の集まりでしたので、ふつうに見えただけかも知れませんが。有り金を叩いて書庫を建てる話を聞きました。その話しかしない。熱心で、何かに憑かれたようでした。中身の価値の何百倍もお金がかかる書庫を建てるなんて、本に関心がない人には理解できない話ですね」
「魔が差したにしても、実現できたのだから塩田さんは幸運だったな。自分の金を何に使おうが自由だ。いまは、たいていの高齢者は目的を失っている。何が夢かもはっきりしないが、それ以上に金がない。長生きしたせいで余計に金が必要になる。遊び金じゃなくて生活費だ。散財できるだけの金がない。人口九千七百万人の二十五パーセントが、ただ漠然と生きているだけの貧乏人なんだから」
 地下四階に降りた。
 構造は全く同じだった。さすがに二人は不自然さを覚え始めた。地下室くらいなら個人の住宅でもある。地下二階は立地によって可能かもしれない。
 しかし、地下シェルターでもあるまいし、この深さまで掘り下げようとすれば建築費も馬鹿にならない。それだけ資金があるのなら、母屋を潰して建て直した方が安くつく。なぜ地下に固執するのだろう。
 本は一段と古いものに変わった。
「戦前から戦後にかけて、となると一世紀前の本ですね。文句なく古書でしょう。譲り受けたコレクターの本なのでしょうけど。社会科学や哲学の全集が結構ありますね」
 小羽は、何冊かを抜き出してみた。
「でも、状態はあまり良くない」
 ふと見ると、この階は空調が動いていないようだった。空気に湿り気を感じる。
「故障ですかね。地下だと除湿は欠かせないのに」
「どちらにしても、さっさと済ませよう。塩田さんが居ないなら居ないで済むわけだからな」
 二人はペースを上げて、階段を下っていく。
 地下五階に降りた。
 一段と湿度が上がった。本はやはり棚に隙間なく並んでいるが、湿気のせいで表紙が貼りついているようだった。室温も地下に進むほど上がってきた。
 不快感が増すと、足取りが重く感じられる。
 二人は若くない。もう七十歳を越える年齢だ。年金支給開始が七十五歳に引き上げられて以降は、高齢者の定義も変わった。十八歳から七十五歳までは生産年齢とみなされる。働かない限り収入が得られない。
 今審議されている新しい法案では、支給開始が平均余命のマイナス五歳という、フローティング年金に変わるという。全生涯、働きづめだ。もういい加減にしてくれと榎田は思う。どうせ、法案が施行されるころには生きちゃいないが。
 数階を下り続けた。
 どの階も全く同じだった。本の種類は少しずつ異なっているが、詰め込まれた書庫の雰囲気が同じなのだ。湿気と温度は耐え難いほどになった。切れているのは空調だけではない。照明がいくつか間引かれ、暗さを増しているようなのだ。
「おかしいな」
 榎田はつぶやいた。
 踊り場が一つしかなかった階段に、二つ目の踊り場がある。これまでなら次の階のフロアに出るところだ。壁に遮られてフロアがあるのかさえ分からない。さらにもう一つの踊り場を経て、二階相当の高さを下る。下りきったところにドアがあった。
 鍵のないドアを開くと、一段と薄暗さが増した。
「ひゃあ」
 小羽が小さな声を上げた。
 広いフロアだ。もう下り階段はない。最下層のようだ。暗いが、広い空間だった。二階分の高さがある。左右は暗がりにまぎれて見渡せない。
 天井に照明が見えるが、高さがありすぎて十分に光が届かない。光の傘の底に、湿った空気が淀んでいる。ドアを開けたことで、わずかな気流が生じたのだろうか、霧状にゆっくりと流れていく。ずっと奥の方で、低い響くような音がした。
 移動書庫が左右にある。最下層フロアのラックは、これまでの二倍の大きさがある。五メートル近くある天井に届くほど高く、首を反らせても上段の本が見えない。ラックに沿って歩いて行く。これまで十五本ずつだったラックは、はるかに数を増しているようだった。
 フロアは奥まで掘り抜かれている。奥には灯火がない。闇に紛れ、どこまで続くのか判然としなかった。
 ラックは、押してもびくともしない。重いのではなく、固定されている。土台部分が溶けたように流れ、床と固着している。棚の本は抜き出せない。棚全体で溶融し一体となっている。背表紙の文字は滲み、全く読めなくなっていた。
「塩田さん居られますか」
 声を上げてみた。残響もなく、ただ吸い込まれていくようだった。しばらく耳を澄ませたが応答はなかった。
 ヘッドライトを点灯し、闇の奥に歩いて行く。何メートルか踏み込んだところで、黙っていた小羽がしゃべり始める。
「ここって、まるで本棚が生えてるみたいですね、地面から。ほら、根があって茎が出て幹になって」
「本棚が樹で、本が実っていると言いたいのか」
「だってそんな感じじゃないですか」
 床はフローリングではなく、むき出しの地面に変わっていた。地面から本棚が芽吹き成長している、確かにそう見えた。
 巨大なラックの並びには、ところどころ隙間があった。念のため、その奥まで確認しながら歩いた。進めば進むほどラックは側板までがねじれ、地面に埋もれていくようだった。塗装はまばらに剥げ落ち、地肌がむき出しになっていた。それは、スチールではなかった。触るとぼろぼろに崩れる、有機的な何かだった。
 照明の光が全く届かない奥まったところ、ラックの狭間に何かが見えた。ライトを向けると人影が立っている。
「塩田さんですか」
 小羽が恐る恐る声をかける。答えはなく影も動かない。
 白髪頭、ラフなジャージ姿で、本を両手に抱えて立ち尽くしている。眼鏡にライトの光が反射した。
「塩田さん、だいじょうぶですか」
 返事はなかった。
 榎田は、人影の足元を指さす。
 足首が、地面に食い込むように埋まり、無数の根のようなものがそこから脚全体に伸びている。体も斜めに傾いでいるのだが、硬直したまま倒れずにいる。
 眼が見開かれている。しかし、瞳孔も眼球もない、彫像に似た目の形があるだけだった。
「マネキンですかね」
「分からない」
 榎田は、塩田に手を伸ばしてみた。すると、触れないほどの熱が伝わってきた。湯気のような靄がまとわりついていた。
 その狭間にはまだ人影があった。うずくまるように本棚に向かう影、話をしているかのような二人の影、どれも全身を根のようなものに絡みとられ、形を失っているようだった。
「小羽が言ってたのとは逆かもしれない」
 榎田は小声で言う。
「何がですか」
「ここは本が生えているところじゃない。本が別のものに変容しようとしているんだ。コレクターもろとも」
 少し間をおいて小羽が答えた。
「本はいつまでも残っていると思われていますが、大半は著者が死んだ時点で流通しなくなりますし、買い手が無くなれば廃棄される。運の良かったごく少数の本だけが残される。そうなると、読み捨てられるジャンク本の行き先がないわけです。塩田さんが集めた本も、最後は同じ運命になるでしょう。ゴミ回収され燃やされるくらいならと、塩田さんが望んだことかもしれません」
「いや、望んだのは塩田さんじゃない」
 榎田は断定的に言った。
「本だ、本なんだ。この匣自体が異常だろう。塩田さんたちは、本の奴隷になった。燃やされるか再生紙に落ちぶれる本が、コレクターを操って生存を図っている、そう考えない限り理解できない。何十万冊も同じ傾向の本が意図的に集められ、本のブラックホールというか臨界というか、シンギュラリティというか結界というか、よく分からないが、何か越えてはいけない一線を越えて……」
 そのとき、天井付近から黒い塊が落下してきた。拾いあげてみると、本の形をした石塊だった。衝撃でばらばらになった頁状の欠片には、びっしりと文字が彫り込まれていた。どすんと音を立てて、数冊分が落ちてくる。あちこちで床面を叩く音がした。
「危ないんじゃないですか」
「まずいな」
 二人は元の通路にもどり、駆け足で階段を目指した。その間も、何かが崩れる音は絶え間なく聞こえた。やがて、それは構造物の軋み音へと変わってきた。
 すぐに息切れがしてきたが、生き埋めになる恐怖から、二人は懸命に地上へと駆け上がった。
 ドアをあけ放って外へと飛び出すと同時に、匣の壁面がふたつに割れ内側に倒れ始めた。内側には、底知れぬ陥穽が口を開けていた。
 倒壊は止まることなく、母屋の建物まで呑み込みながら、ごうごうと音を立ていつまでも続いた。最後には土煙が高く吹きあがった。空気には火傷しそうな熱気が籠っていた。
 小羽はその中に、数えきれないほどの本が羽根を得て舞っているのを、たしかに見たような気がした。蝙蝠の羽根だった。

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