子どもの時間

 幼いころ、ぼくは一日中行方不明になったことがある。
 父と祖母が探し回っても見つからず、近所の人たちを巻き込んで騒ぎになった。
 夕方遅くになって、歌を唄いながら帰ってきたという。
「おまえどこ行っとった」
 と聞かれてると、自分の家の方向を指す。
「あっち」
 家のすぐ裏には、両岸を石垣で固めた、さほど大きくはない川なのか運河なのかがあった。底が見えるようなきれいな川ではないし、深さもそれなりにある。橋までは少し離れているから、簡単には渡れない。
「あっちは行き止まりやろ」
「でも、あっち」
 ぼくは頑なだったらしい。
「えらい意固地な奴ちゃな」
「あいかわらずや」
「ちょっと頭が足らへんのちゃうかな」
「まあ、そうまで言わんでも」
 大人たちは憐れむような眼でぼくを見た。
 ぼくは今でも嘘をつくのが下手で、その代わり本当だと思ったら決して譲らない。融通が効かないのは昔からなのだろう。
 もっとも、ぼくにはこのやりとりの明確な記憶はない。後になって、断片的に甦ったものをこうして書きとめている。
 もともとぼくには放浪癖があった。諭しても分からないだろうと、両親は半ば諦めていた。面倒を見ておけと言われた兄たちが怒られ、陰で兄弟からお前のせいだと罵られたことも何度もあった。
 ぼくには兄と姉がいる。三人兄弟の末っ子だった。当時両親は母方の実家に同居していた。祖父は開業医だったらしい。住居と隣り合わせの医院は閉じられていて、入院患者用だった一画がそっくり空いていた。両親はそこを借りたのだ。
 今とは時代が違う。
 大人より子どもが町の中に溢れていた。年齢が離れていても、たいてい群れて遊ぶ。公園などはなく道路で勝手に遊んだし、多少危険でも自由に遊び場が選べた。親も家事に手がかかるから、子どもの世話だけを焼いてはいられない。よほどでない限り、とがめ立てする大人はいなかった。
 ただ、ぼくは変わり者だった。兄弟とも、同年の子どもとも遊ばなかった。
 町中を走り回るのが好きだった。
 気がつくと、見慣れぬ風景にたどり着く。探検と思うには幼すぎたが、迷子は怖くなかった。その日は、走っているうち、意外なことに自分の家の前に出てきた。
 見かけない荷車のようなものが停まっている。
 車の前では、大きな男がたばこを吹かしながら座り込んでいた。
「それ、なに」
「なにいうて、人力車やないか」
「ふーん」
「ぼうは、見たことないんやな」
「ないよ」
「まあここいらでも、見かけんようになったからな。ほら、おれがこの梶棒の間に入って引っ張るんや」
「これ、おっちゃんのか」
「おれのんやない、先生に雇われてるだけや」
「ふーん」
「ぼう、どっから来た」
「このへん」
「近所の子か、あんまり見かけへんな。ここは初めてか」
 問いかけに、ぼくは戸惑った覚えがある。
 ここが、ぼくの家だったからだ。
 大きな把手が付いた木枠のガラスドアを抜けると、フローリングの玄関フロアがある。焦げ茶色に塗られた無垢材とワックスが混じり合った匂いがする。入り口の左手には小さな小窓が開いた受付と薬局、右手には待合室があった。フロア奥には人の背の高さほどの振り子時計、天井は真っ白な漆喰が塗られ、電球を使った照明器具が吊り下げられていた。
 ありありと浮かぶ記憶の光景は、幼稚園に上がる前の子どもにしては妙に鮮明だった。
 同じといえば同じなのだ。
 ぼくが暮らしていたころと、間取りは変わりない。
 しかし、ぼくの知る受付は倉庫代わりの物置になっていたし、待合室は古い応接椅子が置かれているだけの空き部屋だった。
 同じなのに違う。
 庭に続く木戸が開き、話し声が聞こえてくる。その先に母屋の玄関がある。若い女性数人が歩いてきた。洋装の一人が先頭を歩き、和装の二人が従っている。
「ごくろうさま」
 洋装の女性が声をかけると、男は深く頭を下げた。
「おくさま、いつでも出られます」
「あら、どこの子」
 ぼくに気がついた。答えないでいると、車屋が返事をする。
「このへんの子やと言うとりました」
「そう、でも見かけない子ね。迷子じゃないの」
 すると、後ろから数人の子どもが走ってきた。一番小さな女の子は、おくさまと呼ばれた女性の後ろに隠れるようにして、ぼくを指さす。
「ねえ、おかあさま。あの子だあれ」
 おかっぱ頭で、ぼくと大して変わらない年齢だったと思う。子どもたちは顔つきが似ていた。兄弟なのだろう。
 おくさまは腰をかがめるようにして、話しかけてきた。
「ぼうや、お名前は」
 名前くらいなら言えた。
「そう、でもそれならご近所じゃないわね、町内では聞かないわ。おうちは近いの」
「ここ」
 おくさまは困った顔をする。
「先生がお出かけです」
 後ろのエプロンを掛けた女性が声をかけてきた。
 スーツを着て鞄を提げた眼鏡の男性が歩いてきた。人力車に乗り込むと、全員が並んで頭を下げた。先生はぼくに一瞥をくれたが、何も言わなかった。
「じゃ、行ってくる」
「お気を付けて」
 人力車は思ったより早く、車道を走り去っていった。
 その後、ぼくはその家の兄妹たちと遊んだ。ぼくがしていた乱暴な遊びより、よほどお上品だった。見たことのない外国のおもちゃやゲームがあった。
 金属でできた蒸気機関車の模型があった。短いレールの上を回るだけなのだが、ぼくの知っているブリキのおもちゃより、はるかに精巧なものだった。
「ライオネルの機関車だ」
 なんでもないように教えてくれた。馴染みのない遊びばかりで、ほとんどはついていけなかった。年の離れた男の子は退屈だったようだが、女の子とはよく気が合った。また今度も遊ぼうと二人で約束をした。
「あなた帰れるの、おうちまでの道は分かるの」
 おくさまは心配してくれたが、ぼくは平気な顔で大丈夫だと答えた。

 *

「人間は時間を空間的に把握する」
 ぼくは議論の口火を切る。
「人間が時間をどう表現するか考えてみよう。そうすると、すべて空間から転用されていることがわかるだろう。たとえば未来は前にある。人が歩いている方向にある。過去は後ろにある。歩きすぎた方向だからだ」
 あまり広くないセミナールームに、十人ほどの学生が席を並べている。
 一人が手を挙げる。
「文化によって違うこともあるのでは」
「いいね。そう、文化によっては前後が逆転することもある。時間に対して、常に過去を見ながら後ろ向きに歩いていると考える文明もある。未来はまだ見えないけど、過去は既にあったものだから見えている。つまり、後ろにあるとね」
 ぼくは学生たちを見回す。
「しかしだ、どちらにしても空間的な方向だろう。前後は人が向いている方向に過ぎない。時間が短いとか長いとかも、物体の長さと同じ言い方だ。他にないかな」
「近いとか遠いとか」
「そう、近い将来、遠い過去などは、距離そのものでアナロジーされている」
「過去を振り返る、もそうですね」
 ぼくは体を巡らせ、ぐるりと後ろを向く。
「うん。こうやって振り返ったところで、過去がほんとうに見えるわけじゃない」
「歳月が過ぎ去る」
「電車や車の窓からの景色なら、過ぎ去る瞬間が見えるだろう。けれど、過ぎ去る時間は見えない」
「時間が飛ぶように進むとか」
「ハングライダーに乗れば、鳥みたいに飛んでいると感じられる。しかし、飛ぶ時間というのは、結果を表現しているにすぎないわけだ。気がついたらこんなに時間が過ぎていた、とかね。リアルに見えたりしない。考えると、おかしな表現がいっぱいだと分かる。こんなふうに、日常的で当たり前に使われる時間に対する隠喩は、すべて空間に由来する。つまり、人間には時間固有の表現ができないわけだ」

 *

 空に煙が上がっている。
 ひと筋どころではなく、真っ黒な雲のように広がる煙だった。サイレンなのか何か分からない遠い音に交じって、低く体の底に響く音が聞こえてくる。
 空には黒い虫が無数に舞っている。
 何だろう。
 ぼくは川の土手に立って、煙の方向を見ていた。
 川にはよく遊びに来た。流れには近づくな、と母親から釘を刺されていたが、護岸から陸伝いに行ける中州がたくさんあり、葦原の根元では大きなハマガニがいくらでも捕れた。
 土手の右手はえんえんと続く塀で閉ざされている。出入り口は見えず、立ち入りはできなかった。どこかの工場の敷地なのだ。ただ、その日に見た工場の屋根は、ぼくの知っているものとは違っていた。屋根全体が薄汚れ、暗く沈んで見えた。
 すると、小さな虫のいくつかが向きを変える。そして、みるみる大きくなっていく。
「何してるの!」
 女性の声がする。
「あぶない、こっちきて」
 下から駆け上がってきた女性が、乱暴にぼくの手を引く。
「みてるだけだよ」
「ばか、なに言ってんの」
 ぼくを抱えるようにして走り出した。
 あの虫は、うるさい音を立てながら迫ってきた。虫じゃない、銀色に輝く大きな飛行機だった。
 何かが光る。轟音がぼくらの周りを取り囲み、砂煙が上がると同時に、飛行機はすぐ上をすごい速度で抜けていく。何が何だか分からないまま、ぼくらは地面に倒れ込んだ。
「いたた、ぼうや怪我してない」
 裂けた服の片腕から血を滲ませながら、立ち上がってぼくの様子を見た。
「血が出てる」
「だいじょうぶ擦り傷だから。あたったんじゃないから」
「うん」
 ぼくは泣きそうになりながら頷いた。
「あいつまた来る。今度撃たれたらだめかも知れない。さあ行くよ」
 空ではさっきの飛行機が旋回しようとしている。ぐるっと回って戻って来るのだ。泣くまもなく、ぼくは慌てて女性の後を追った。
 土手を転がるように駆け下り、脇に掘られたトンネルに駆け込むと同時に、あの厭な音が入り口付近を薙いでいった。そこには数人の大人が隠れ、息を潜めていた。
 長い時間が経ったあと、ようやく外は静かになった。
 暫くしてから、トンネルの入り口に誰かが走ってきた。
「警報解除だ、職場に戻れ。まず消火だ。動員生徒は帰せ」
「くそ、やりたい放題やりやがって」
 工員風の男が吐き捨てるように言いながら立ち上がり、気がついたようにぼくを見た。
「どこの子だ。親はどこだ」
「分かりません」
「知り合いじゃないのか」
「違います。ふらふら歩いてて、危なかったので」
 女性はそう言ってから、訝しげにぼくを見た。
「でも、見たことがあるような……」
 よく見ると、まだ大人ではないお姉さんだった。どこかの学校の生徒なのだ。膨らんだズボンを穿いて、髪留めなのか頭には鉢巻きをしていた。
「工場の中だぞ、迷い込んだのか」
「知りません」
「おまえの責任だ。親が見つかるまで世話をしろ」
 工員は少し苛々したのか、吐き捨てるように言って出て行った。
 お姉さんはため息をつきながら、それでも笑顔を見せてぼくの方を向いた。
「きみ、名前は」
 ぼくが答えると、お姉さんは不思議そうな顔をした。それから、矢継ぎ早に問いかけてきた。
「あなた、見たことがある」
「で、でも」
「そうだ、おとうさまが亡くなったとき、一緒に歩いたじゃない」
「え、いつ」
「違うか、あれは五年前だからそんなはずない。違うわね。でもよく似てる。そっくりに見える。あなた、あの子の弟か何か。あなたいくつなの、変わってないなんてはずないよね」

 *

「ホイーラー・ドウィット方程式というものを聞いたことがあるかな」
 ぼくは学生たちを見渡して語る。
「一般相対性理論と量子力学の融合を図る方程式の一つだ。ここにいるのは物理学専攻の学生じゃないから知らなくてもいいが、名前ぐらいは憶えておこう」
 白板に代表的な数式を板書する。
「相対性理論に絶対的な時間はないのは知っているだろう。おとぎ話になぞらえたウラシマ効果が、アニメなどで出てくるから有名だ。光の速度近くで移動すると時間が遅れて、移動していない者との時間に差異が出る。重力で空間が歪んでいても、よく似た時間の差異が生じる。ところが、一方の量子力学では、ある意味で絶対的な時間が存在する。量子のふるまいが、観測者の移動によってばらばらになることはない。宇宙を説明する二つの理論に差異が出るのは奇妙だ」
 学生たちは黙って聞いている。
「そこで、ホイーラー・ドウィット方程式が出てくる。これは量子重力を記述する方程式で、物事が互いに対してどう変化するか、この世界の事柄が互いの関係において、どのように生じるかを記述するものだ。ところが、この方程式では時間変数がまったく含まれていない。さらに進めたループ量子重力理論でも同様だ。相対論でも量子力学でも、単独の理論中には時間のパラメータがあるのに、二つを統一的に記述しようとすると時間が消えてしまう。素粒子レベルまで空間の特性を追求すると時間が消え失せる。方程式が不完全だからかもしれないが、つまり普遍的な時間など存在しないと考えた方が分かりやすい」
 一人が手を上げる。
「時間がないってどういう意味ですか」
「文字通りだよ」
「でも、だれでも時間を実感してるじゃないですか」
「時間が存在しないとしても、人間は時間を錯覚することができる」
「錯覚ですか……」
「どうだろう、ある瞬間に子どもだった人が別の瞬間で大人になっていたら、その変化から時間を感じ取るんじゃないか。たとえ離散的で孤立した瞬間が二つあるだけでも、ひとは時間が過ぎたと思う。たとえば、瞬間と瞬間を細切れに生きたとしても、その人にとっては連続した時間と思えるんじゃないかな。途切れた隙間の記憶は、あとからいくらでも作られてしまう」
 ぼくは言葉を選ぶ。
「ただし……観測者が、瞬間の中に埋没している間は分からない。瞬間の外に出て、自分自身を客観化することが必要になる。そのときに、時間という錯覚が産み出されるわけだ」

 *

 たくさんの人が集まっていた。
 ぼくは家に入りたかったのだが、通れそうになかった。門の前に大きな黒塗りの車が停まっているのだ。ボンネットが長く、ヘッドライトがむき出しの変な形をした車だった。運転席は見えたが、後部座席のところは黒い板で囲われた荷物置きのようだった。
 庭に続く扉が開き、何人もの男の人によって大きな白い箱が運ばれてきた。
 箱は大きな自動車の後ろに運び込まれる。車の扉が閉じられると、ゆっくりと動き始めた。すると大勢の人たちが、列を作って車の後を歩きはじめた。それくらいの徐行運転だった。
 これほど人がいるのに、おしゃべりする声はあまり聞こえなかった。静かなパレードなのだった。
 ぼくは先頭付近の列に付いていった。晴れていて、散歩には心地よい気候だった。車のすぐ後ろから黒い排気ガスが漏れ、土埃が舞い上がる。ガスは甘い香りがした。
「あなたどうしたの、どちらのお家から来たの」
 小さな子どもが一人で歩くのを見咎めたのか、制服を着た女の子が語りかけてきた。
 何度も訊かれることなので、ぼくは淀みなく自分の名前を答えた。
「ちゃんと、ご両親と一緒にいないとだめよ」
 勘違いしたのか、女の子はそう言った。
「いまから、どこに行くの」
「これはお葬式の列なのよ」
「おそうしき」
「おとうさまが亡くなったの」
 そう言うと、女の子は少し涙ぐんだ。
 列の前の方におくさまがいた。後ろ姿が前よりも老けて見え、元気がないようだった。
「おとうさまは、わるい病気でお亡くなりになったの」
 少女はハンカチを目にあてた。
「でも、あなた見たことがあるわね、どこだっけ。ずいぶん前のような気がするけど、思い出せないわね。そんな前だったら、あなたと違うだろうけど」
 ぼくがふらふらするので、しっかり手を握って歩いてくれた。
 葬列の先に寺が見えてきた。
「ここからは一人だけで入っちゃだめ。ご両親を捜してきなさい」
 両親がいるわけもなく、ぼくは寺の門前で立ち往生した。参列者は次々中へと入っていった。おおぜいが見守るようだった。

 *

 「遠出」の記憶は、長い間ぼくの中で封印されていた。それはばらばらに置かれた三つのできごとである。頭の中の順序も定かではない。断片的な思い出の一部に過ぎなかった。
 だが、大学に入り、やがて研究者になって時間の本質を考えるようになると、記憶はより鮮明なものへと変化していった。より鮮明なもの、と書くと誤解を招くかもしれない。記憶はもともと恣意的なもので、その時々によって解釈が変わっていく。より扱いやすい形に変化した、というべきだろう。
 あれは一日のできごとだった。
 朝、ぼくは家を出て小さな港がある方向に歩き出した。漁船が何隻か溜まっている波止場があった。一本道なので迷いようがなかったが、途中でぼくはどこを歩いているのか分からなくなった。やがて、家の前に出てきたのだ。
 昼前に、その家を出て川に向かって歩いた。運河のような小さな川ではなく、大きな河川だ。堤防となる土手が築かれていて、その上は道になっている。遮るものがないので風が強く吹く。いつ違いが分かったのか、火災の煙が立ち上っていたのは堤防に上がる前だったのか、後だったのかはっきりしない。
 たびたび、注意力散漫な子どもだと揶揄われていたころだ。子どもなんてそんなものだが。
 土手で散々な目に会い、お姉さんからおかしなことを言われた後、どの時点で別の時間に移動したのかは定かではない。午後のいつか、ぼくが家に戻ると、葬列が寺に向かって進んでいた。祖父の葬列だった。
 三つのできごとで、ぼくは三人の女の子と出会った。
 遊んでもらった同い年の女の子と、もんぺを穿いたお姉さん、制服姿の女の子が同一人物だとは、幼いぼくは気がつかなかった。顔立ちが同じでも、背の高さがまるで違っていたからだ。
 時期を特定できるまでに、しばらく時間がかかった。
 ぼくが育った家は、三十年も前に人手に渡り、今はもう取り壊されてなくなっている。大学に入って以来、訪れることも稀だった。
 何十年ぶりかで、旅行がてら家の近所を歩いた。消息の途絶えた遠い親類しかいない町を歩いても、記憶を呼び覚ませるものは少ない。
 道路は意外に昔のままで、ただ、街並みはすっかり変わっている。漁港もない。運河の水はきれいになり、古ぼけた漁船の代わりに釣り船なのか個人の持ち物なのか、クルーザーが舫われていた。
 河の土手からの光景も同じだが、当時の子どもの視界を再現することはできなかった。土手を通る道は自動車道路からも外れていて、昔も人通りが少なかった。
 この先に埋立地があり、戦争中は軍需工場が建っていた。戦後すぐに、あたりは臨海工業地帯に変わる。重工業の大きな建屋で埋まるのだが、あのときには小規模の飛行場と隣接した工場があったようだ。
 爆撃の格好の目標だった。戦争の末期なので、一方的に叩かれる標的だ。戦う相手のいない戦闘機は、高度数十メートルまで降下してくる。無差別に人を撃つためだ。工員として働かされる学徒動員の女生徒が、機銃掃射を受けることも頻繁にあった。民間人と分かっていても撃つのだ。
 最初の女の子はおそらく幼稚園の五歳、二番目は爆撃の記録から高等女学校に通っていた十五歳、三番目は祖父が死んだ年なので小学校の十歳だろうと思う。当時のぼくには、分かりようがないことだった。
 この三人は、ぼくの母だ。

 *

「結局のところ、人間には、直感的な時間と空間の区別ができないのではないか。前回議論したように、時間に空間表現を援用しても、違和感がないことからも分かる」
 ぼくは学生を見回しながら話す。
「でも、なぜでしょう。不思議ですね」
「うん、時間は見えないのだから仕方がないともいえるし、実際に時間など存在しないから表現できないのだ、ともいえる」
 午後の時間だ。学生は眠そうに聞いている。
 それでも、一人が疑問を口に出す。
「時間が存在しないって考え方は、直感的にはやっぱり分かり難いですね。どう捉えればいいのでしょう」
「哲学の思想には、時間の捉え方に二通りがある。一つは、時間は現在の瞬間しかなく、未来も過去も現在の瞬間には存在しないとするもの。もう一つは、時間は空間のようにあらかじめ存在して、未来も過去もすでに存在する考え方だ。きみは、どちらが時間のない世界だと思う」
「え、前者でしょうか」
「そう、前者の場合、常に今しかない。今の瞬間だけだ。つまり時間は流れないことになる。一方、後者の場合は、未来も過去もある。時間は、空間とは別の次元のように扱われる」
「それなら時間は存在するのでは」
「いままでの議論で出てきた、人間の時間に対する表現を思い出してみよう」
 ぼくは、ブラインドが巻き揚げられた窓に目をやる。東の窓に午後の空が写っている。
「小さな子どもには、速さの概念がない。距離の長さ、つまり空間の長さと時間の長さが同じだとみなす。時速十キロと二十キロの二台の自転車があって、同じ時間走ったとしよう。当然二十キロの方が倍走っている。速さが違うからね」
 白板に二本の直線、長い線と短い線を描く。
「でも、子供は二十キロの方が長い時間走ったと考える。倍の距離なのだから、時間も長いとね。つまり、子どもにとって時間と空間の長さとは同じわけだ。空間の移動と時間の移動とが等価になる。この子にとって、時間は空間から独立していない、単なる一部でしかない」
 ぼくは一呼吸置いた。
「時間は空間に従属している。独立した時間など存在しないことになる」
 だから、別の時間まで歩いて行けたのだ。
 授業を終え、誰もいないセミナールームを見回す。
 学生たちは煙に巻かれたような顔をしていた。無理もない。
 ぼくの個人的な記憶については、これまで誰とも話したことはない。兄弟や父親、祖母にも話したことがない。ただ、あれがあったからこそ、哲学や心理学を学ぶようになったのだろう。
 出来事を想起する過程で、ぼくは時間の離散的性質を考えるようになった。
 離散的、つまり、不連続でばらばらにあるものだ。
 時間の単位を秒、ミリ秒、マイクロ、ナノ、ピコ、フェムトと解像度を上げていっても、どこかで連続性は途切れる。カントールの無限が、時間で成立するとは限らない。
 だとすると、時間は離散的になる。事象ごとに分散しているのかもしれない。これは、脳に刻まれる記憶とも一致する。脳は、毎日毎時のすべてを記録しているわけではないからだ。
 事象つまりイベント、あるいはできごと単位で、空間の中に時間の塊が散乱している。
 人はその塊にランダムにぶつかりながら、後付けで時間の順序を組み立て、それが時間の経過だと錯覚するのだ。
 時間が空間の一部なら、どの時間にも歩いていける。
 時間が離散的なら、その任意の時間=事象を選べるのかもしれない。
 大人になったぼくにはもう無理だが、子どもなら、特定の事象に迷い込めるのかもしれない。
 ぼくの母は、早くに亡くなった。
 ぼくが行方不明になった日の、ちょうど一年前だった。
 癌が見つかってから、あっという間だったらしい。死んだという意味がなかなか理解できなかったし、幼すぎてぼくには母親の記憶があまりない。病床や看護、葬儀を含めて、思い出せることは何もない。母はアルバムの写真の中にしかいないのだ。
 小学校のほとんどの期間、祖母に育てられた。祖父が亡くなって以降、家はお金には苦労していたらしい。母は学校を出てからすぐに働き、結婚も早かった。
 祖母が教えてくれたことがある。
「もう忘れちゃったかもしれないけど、あなたはお母さんにすごく可愛がられていたのよ。末っ子だからかねえ。お兄ちゃんやお姉ちゃんが嫉妬するくらいに」
 祖母はおくさまだ。ただ、一日の一瞬だけ会ったぼくが、孫のぼくと同じとは思わなかった。
 その祖母も、いまはもういない。
 ただ、いつかは分からないのだが、ぼくの全身をじっくりと検めていた母を憶えている。何かを思い出しそうになって、少し顔をしかめていた。
 縁側に座り、ぼくは母の横顔を見ながら何か話しかけていた、いや歌を唄っていたのだろうか。
 けれど、母はなにも言わなかった。最後には、静かに抱きしめてくれた。
 ぼくはあの日、母親の時間を探して彷徨ったのかもしれない。