陰謀論

 プロのカウンセラーに任せるべきだろう。
 と、思うような仕事をしなければならない時がある。断るという選択肢もなくはないが、今後のキャリアを考えると、あまりよろしくない。
 喜んでは、できないけど。

「監視されてるみたいでね」
 小さな会議室の一画で、歌織かおり芳河一也よしかわかずやの話を聞いていた。
 面談を会議室で行うのは歌織くらいだ。そうする必要はなかった。
 時間がとれない同僚だと、自分の机の横に呼んで査定の話をしたりする。声が漏れ聞こえるので、ちょっとどうなのか。
 でも、こんなに手間がかかるとは思っていなかった。
 歌織の会社はジョブ型の雇用形態である。
 昔からではない。歌織が入社する前に大きく制度変更されたのだ。年功序列や定期昇給なんてないし、職務の難易度や成績しだいで給与は大きく上下する。
 しかし、業務を達成したかどうかを判定するのは人間だ。
 もちろん、機械に任せようという構想もあるし、実際そうしている会社もあった。
 ただ、機械判定には問題がある。
 すべてを数値化できない。数値化できない部門では、仕事ができたかどうかは、管理者の心証しだいになる。
 そういうデータを機械に学習させると、恐ろしく不公平な評価を出す。性別や年齢や性格や、およそ仕事と無関係な要素で判定を下すのだ。人間なら内々で済ませることもできるが、機械は平気で公にする。当然、揉める。機械が悪いのではなく、人間のいい加減さがデフォルメ、濃縮されただけなのだが。
 管理者向けの業務規定書に、しれっと書かれている。

〈ジョブの成果を判定する際には、被査定者と綿密な話し合いを持ち、双方が納得する結果とすること〉

 そりゃ、好成績の奴に高評価を出すならいいよ。
 成績が良くても低評価とか、中には成績が悪いのにマイナス評価を受け入れない奴もいる。つまり「納得させる」のが要点なのだ。不満が膨らむと、部門の空気は悪くなる。
 歌織は管理職になるまで、成績について深く考えたことはなかった。
 いつも他のメンバーより仕事ができたし、常に査定はプラスだった。それが当たり前と思っていた。
 商品企画に配属され、すぐにアイデアを採用されるほど頭が回った。仕事の呑み込みは早いし、とっさの変更にも対応できた。口調が明快なせいで、議論に負けたことはない。上司の受けも良かった。
 しかし、早々に昇格して分かったのは、会社がゼロサム社会だという事実だった。
 誰かの成績を上げると、他の誰かはマイナス評価になる。
 全員がんばった、全員プラスとかはない。
 商品がブレークしてボーナスが出たとしても、査定の合計がプラスになることはない。誰かが平均の一〇パーセント増しをもらうのなら、別の誰かが一〇パーセント減らされる。配れる原資、お金の総額が一定である以上、プラスマイナス一〇〇パーセントは動かせない。
 ボーナスならまだいいが、年俸のマイナス査定となると給与総額が減る。笑えない事態だろう。
 マイナス評価を付けたら、直属の上司は恨まれる。
 人から恨まれたことなんてない、一生ないと思っていた。こんなことなら昇進を断れば良かったのかも。
 でも、ヒラのまま上がれるだけ上がっても、いずれ職種階層は頭打ちになる。よほど特殊な専門技能を持っているのなら別だが、歌織の担当者としてのスキルは先が見えていた。
 悩んだ末、とにかく部下の話を聞くことにした。
 歌織の嫌いなビジネス用語で、積極的傾聴というやつだ。相手に心ゆくまで話をさせる。不満とか自分の考えとか、なんでもいい。そうすると、最後に悪い結果を告げても、相手の感情的な反応が和らぐことが分かったからだ。
 まあ、ストレス発散、捌け口というわけ。
 歌織は自嘲的に独りごちる。自分の発散先がないのが問題だけど。
 しかし、中には理解できない話もある。

「……どういう意味」
「ファイルが勝手に移動していたり、開けられたような気がしてね。何回かあって、ファイルサイズとか日付がおかしいような。PCの中に何かが入って、監視されているような感じで」
「ファイルを触った痕跡とかは」
「証拠だよね、となるとちょっと。もともとファイルの中身がどうだったのか、すべて憶えてるわけじゃないし。ただ、あるじゃないですか、メールでスパイウェアが送られてくるとか。スパイウェアがどんなものか、具体的に知らないけどね」
「心当たりはあるんですか」
「いま話したくらいかな。いや、ただ気になるだけでね」
 冗談を言っている風ではなかった。
 年配者の中には、悪い成績をごまかすかのように、昔の自慢話をする人もいる。
 いや、そんな話は聞きたくないから、とかは言わない。黙って聞いてやる。
「だったら、ウィルススキャンを念のためかけて、しばらく様子を見ましょう。また何かあったら知らせてください」
 そのあと、一般的な注意をいくつか口にして面談を終えたのだ。
 歌織の部下には年上の男性が多い。
 ジョブ型の会社では珍しくないだろう。数歳程度のこともあれば、再雇用間際の者までいる。そういう場合、歌織はため口では話さない。
 芳河一也は、中では最年長になる。
 欧米あたりなら、真っ先にレイオフ対象となる平凡な成績だった。年齢の割に職階は低く、マイナスの査定が付いても、減らされる給与自体が少なくダメージは感じないのだろう。もう後がないから挽回する意欲が湧かず、たとえ辞めたとしても、転職してよくなる見込みが持てないはずだ。
 気のいい人だ。
 子どもはおらず、夫婦共稼ぎと聞いた。金銭的に困ってはいないのか、よく旅行に行く。旅の話もよく聞かされる。これまでトラブルを起こしたことはなく、日常の業務はまずまずこなしてきた。冷たく言えば、可もなく不可もない。上司の指示に逆らわない扱いの楽な部下だった。
 これまでは。
 一也からこんな話をされると、なんとなく気味が悪い。
 メンタルリスクがあるのではないか。
 だとして、どうすべきか。
 歌織の会社には総務部門がない。人事や経理など、多くの間接部門は機械に置換された。生産性アップのベスト企業に名が挙がることもたびたびある。
 しかし、置換できない業務は現場に丸投げされる。部門内部のハラスメントやコンプライアンス、メンタルヘルスなど、人にかかわる機微な問題は部門責任になる。
 半日ほどの管理者研修だけやって、すべてお任せなんてひどい。
 何もなければ、何もしなくて良い。非常時に対応できないといっても、非常時はめったにない、ってそりゃあたりまえだ。めったにないからリソースを減らすって、おかしいだろう。
 先延ばしにするしかないかな、つまり様子見だ。なんて官僚的なんだ。
 そもそも、こんなことを解決しても成績にはならない。ただ、長期欠勤とかになると、歌織の管理能力がマイナス評価になるのは間違いなかった。

「ダークステーツですよ」
 芳河一也がささやくように口にしたのは、一月近くが過ぎた日のことだった。
 管理職の机にやってきて、一言つぶやいたのだ。
「え、なんですか」
「正体が分かった、ダークステーツだったんです」
 慌てて空いている会議室に連れて行った。いつもと違う雰囲気だったからだ。
 ふだんの芳河はとても静かだった。感情の起伏はほとんど見せず、おそらく若いころから温和しかったと思われる。しかし、今日は顔色がいつもより赤みを増していた。
 興奮を覚えているのか。初めて見せる表情じゃないの。
 何の話かは、その間に思い出した。
「監視している相手がですか」
「そう、ダークステーツには手先がいてね、そいつらは人間じゃない。意思を持ったソフトウェアで、すべてのパソコンやスマホに潜入してくる。セキュリティ・アップデートに偽装してインストールされてしまう。システムファイルに小さな改竄がされていているそうですよ」
「どこからそんな話を」
 芳河は老舗SNSの名を挙げた。
 世界的な超大手で、逆にいうと何でもありすぎる。本国の政治に関わる記事はポリコレがあるから検閲するようだが、訴訟沙汰にならない日本語のサイトなどほとんど野放しだ。歌織は、そういうあぶない系アカウントには関わらないようにしてきた。
「アップデートが丸々偽物なので、ハッシュ値検査などをしても簡単にすり抜ける。インストールされたアプリの一つを経由して、データはダークステーツのサーバに送り出されるんですよ」
 芳河は、暗唱したかのように続ける。

〈ダークステーツは表側の国の裏側に潜む国家クラスの巨大な組織である。すべての国の背後にはダークステーツが陰のように存在する。ネットの背後には複雑に絡み合った個人データの集積がある。外国のサーバにデータが吸い出されると警戒された時期もあったが今はすべての個人データは国内に置かれている。なぜかサーバとその方が都合が良いからだ。ダークステーツは国民データを秘匿されたサーバの中で集積する。サーバは国内のサーバファームのどこかにある。誰がどこで何をして何を話したかすべてオートエンコーダが圧縮し記録する。人間の行うイベントなどはたかが知れている。国民すべての行動を記録してもデータ量で目立つことはない〉

 などと、芳河は滔々としゃべった。
 暗唱したの? 怖すぎるのでは。
 この会社は、ジョブ型転換以降、基幹事業を何度も入れ替えてきた。だからこそ続いているともいえる。古いものをあっさり捨てるのだ。
 はじめて会ったとき、芳河は歌織の知らない昔の事業のことを話してくれた。事業名も聞いたが、歌織にはまったく憶えがなかった。芳河は研究開発の部署で設計をしていた。事業は立ち行かなくなり解散したという。
 そうなったあと、日本型の社内レイオフには善し悪しがある。
 馘首にはならない。しかし、失敗した旧事業のメンバーは、実績ゼロと見做される。次にどんな仕事に就けるかは選べない。芳河はそのリスタートに乗り切れなかった。さまざまな部署を渡り歩き、バッファ要員の役割を押しつけられてきた。
 部門の人数は、成果で左右される。悪ければ削減される。低い査定や人員の調整用に、バッファが用意される。芳河は面白そうに話してくれたが、そう楽しい役柄ではなかったろう。
「それで……」歌織は口を挟む。
「芳河さんはどうしたいんですか」
「どうするって」
「個人で何かできるとも思えないでしょう」
 芳河は、一瞬表情を失った。
 ヤバいこと言ったかな。歌織はひやりとする。
 ふだん感情を見せない年長者の心理なんて推定不可能だ。
 特に、こんな内容となると、いったいどうすれば。
 監視されているという妄想は昔からある。
 尾行者がいる、新聞や週刊誌に載る、TVに写される、盗聴器がある、ネットで噂されるなどなど。だが、ハッキングがあたりまえになり、政治家が国家級の監視の疑いがあると煽ってからは、自分も被害者だと思う人が爆発的に増えた。時代を反映する病なのだ。

〈なぜ自分がターゲットだと思うのですか、だってあなたは政府の関係者でもないし、重要人物でもなければ、お金持ちですらない。ハッカーだって、それほどヒマじゃないでしょ〉

 研修で習ったのだが、こういうセリフは禁物である。お前みたいな凡人が相手にされるわけがない、というのは正論だが、妄執に取り憑かれている相手には逆効果になるらしい。
 そんなハッキングは物理的に不可能である、根拠がない、非科学的である、とかの論理的な説き伏せもだめだ。もともと筋が通っているから信じたわけではない。直感的なものである以上、説得は外国語で話しかけているのと変わらない。聞いてもらえないのだ。
 唯一有効なのは、いったん相手の発言をすべて肯定し、人間的に親しくなって、だんだん妄執を解いていく方法だ。つまり人として信用してもらうこと。現実離れした蒙昧より、目の前にいる人間の方が安心できるからである。
 でも、あまりに面倒くさすぎる。
 論理がだめで人情でしか対応できないとなると、わたしはどうなのか。芳河には信用されているのだろうか。だったら、説得できるのか。
 歌織はこれまで企画の提案にしても、市場分析にしても、常に根拠を持たせるように仕事をしてきた。プレゼンも自ら行った。定性より定量、ロジックが第一だ。上司とか同僚とかに、情緒的に訴えたりしない。だからこそ認められたのだし、誰にも文句を言わせない実績がある以上、必要がなかったとも言える。
 部下に情を持って接すること、だって。
 なんて古い考え方だろう。管理職が親分で親代わり、部下が子分で子どもだった時代はとっくに終わっている。そもそも年齢的には、芳河がわたしの親でもおかしくないのだ。
 ムリだね。
 自分に人情のスキルがないことは分かっている。管理者としての弱点だ。しかし、自分が当事者となると逃げられないではないか、どうするんだ。
「あ、いや、あの分かりました」
 歌織は慌てて続ける。
「芳河さんのお話はよく分かりました。わたしも読んでみますので、そのアカウントを教えてもらえませんか」

〈この国では監視は国家が管理していないと思われている。しかし個人や企業が設置するカメラは至るところにある。監視国家に負けない量の画像データが収集されている。その背後には有線または無線のネットワークがある。最新の機器ならミリ波帯を使った無線だろう。設置者はどこにつながっているのかを意識しない。このミリ波帯をダークステーツが支配している。受信装置には集積回路に予め機能が組み込まれており装置を分解しても傍受部分を切り分けることはできない。装置から送られ集められた記録はステーツの機械が解析する。ステーツの機械には人間の行動を細部にわたり分類評価する機能が備わっている。それぞれの人物単位でキーとなる行動からランク付けが行われる。ランクがもし一定の閾値を下回るようになるとその人物は社会的に抹消される。人物のもともとの社会的地位は関係がない。政治家であろうと会社の幹部であろうと一般市民であろうと関係がない。抹消にはさまざまな手段がある。まず社会的な人間関係を毀損しその人物を孤立させる。次に遠隔地に誘導し隔離する。強制的な連行は必要ない。細分化された役割分担に従って大衆は無意識に人を追いやることができる。目の前から消えた人間のことを情報の洪水に溺れる大衆は長く憶えてはいない。ダークステーツはこのようにして人々を望ましい状態に保ち結果として表側の国家を支配している〉

 ある種の、というか陰謀論そのもの。
 歌織は暗然とする。
 断定的でクセのある文章だった。だが、監視カメラや基地局の写真、その分解写真とかがあり、凝ったレイアウトの中に収まると、かえって生々しく本当のように見える。
 世に蔓延する陰謀論にはさまざまなものがある。
 馬鹿げているという点では共通するものの、信奉者が馬鹿だとは限らない。学歴や職業に依存せず、浸透する層もさまざまだ。こういう人たちはある物事の一面だけを見て、針小棒大に拡大解釈する。そんな嘘も見抜けないのか、想像力が足りないのではないか、と批判する人もいるが、人間はそもそも主観的な生き物である。客観性を保つのは苦手なのだ。
 昔なら、妄想型統合失調症としてくくり、精神的な病気に分類した。しかし、今の世の中でそう決めつけるには対象者、信者が多すぎる。ものによって、何百万人も信じている。
 治療すべき病というより、人間の特性の一つなのかも知れない。明らかに間違っていても、本当だと強固に信じ込ませる何かがあるのだ。錯視や錯覚とおなじような、認知上の特性、バグかも知れない。
 芳河がこれを信じているとして、いったいどうすべきか。おそらく仕事には影響していないのだから、趣味と考えて無視すれば良いのか。
 上司にお伺いを立てても、どうせおざなりになる。
 大事にならないように注意しなさい、とかの「よきにはからえ」発言で済まされる。
 歌織はプロジェクトのリーダーだった。直属の上司となると、経営職になってしまう。
 上司の査定指標は経営数字、売り上げや利益だ。彼らだって、年俸制のサラリーマンに過ぎない。数字に追われる立場からすると、金にならない一般社員のメンタルリスクなど他人事にしか聞こえないだろう。
 具体策は自分で考えるしかない。

「ここにもダークステーツが潜んでいた」
 いつもの会議室だった。今度は呼び出されたのだ。
「……というと」
「悪いけど、リーダー、あんたを告発することにしたんだ」
 芳河一也は表情を変えずにそう言った。
「告発……」
 冷や汗が出た。会社で告発といえばハラスメントに決まっている。
「あんた、ダークステーツのメンバーだな」
「あの、ちょっとまってください」
 予想を超えている。
「会社の中にもメンバーはいる。どこにだっている。どこにいても不思議はないけど、まさかあんただったとはな」
「いや、あの」
「おかしいとは感じていた。おれがずっと認められず、会社も思わしくない。給与も上がらない。部門の仲間にも不満が渦巻いているはずだ。どこかに原因がある。社内で謀議を企てて、人を理不尽にランク付けしている奴がいる。黒幕がいるはずだと思っていた」
「……それが、わたしですか」
「真相が書かれた文書を読んだ。この会社の名前が書かれていた。道徳的に許されない不正行為が行われている。そこで気がついたんだ、あんたしかいないだろ。知ってしまった以上、黙ってはいられない。告発する」
 すごい論理の飛躍だ。
「どこに告発するんです」
「サイトだよ。やがて処分が下るだろう」
 処分ってなに、と思ったがどうせ妄想なのだ。しかし、手当たり次第に、告発状とかの怪文書を送られると、かなり拙いことになる。
 芳河の「病状」が一段と進行したのは間違いなかった。
 歌織はがっかりした。年四、五回ある面談ではほとんど不満を漏らさなかったが、笑顔で話した裏で本心を隠していたのだ。納得させたと勘違いしていた。
 一度もプラスに査定しなかったもんな、恨まれて当然か。
 芳河の態度の変化を、他のプロジェクトメンバーは怪訝に思ったかも知れない。ただ、年齢の離れた芳河は、これまでも浮いた存在だった。少なくとも、部内に親しい友人はいないようだった。
 しばらくは何も起こらなかった。
 ところが、数日経った頃プライベートのメールアドレスに、おかしなメッセージが入るようになった。

〈かおりさまあなたがかいしゃでおこなっていることははんざいこういにあたりますふせいにかいしゃほうしんをろうえいしじぜんにえたけっさんじょうほうをもとにしょうけんのふせいしゅとくをおこないかいはつけいかくをきょうぎょうあいてにろうえいしのうにゅうぎょうしゃからふてきせつなせったいをうけまたじゅうようなにゅうさつかかくをろうえいしていますこれらはかいしゃにじゅうだいなそんがいをあたえていますわれわれはそのすべてをはあくしておりますわれわれはそのすべてのしょうこをきろくしております。〉

 そういうスパムめいたメールが何百通も送られてくるのだ。送付サーバは毎回異なっている。偽装されているのだろう。これまでジャンクが来たことのないアドレスにも届いた。リンクが含まれないのは、ウィルスチェックを避けるためか、脅しが目的だからなのか。メールだけでなく、チャットのアカウントにも同じようなメッセージが入っていた。
 プレーンテキストで、改行のないだらだらした文章が続く、薄気味の悪いメールだった。まともな人間が書いたとは思えないが、どうせ人間ではないだろう。
 プライベートのアカウントには、写真も本名も出していない。だが、数珠つなぎに調べれば分かる。部分的に明かしているところもあるからだ。セキュリティが甘かったのか。
 会社の場合は、ファイアーウォールがある。スパムやスパイウェアの類いはフィルタされる。そもそも社用以外のSNSにはアクセスすらできない。
 しかし、クライアント企業のアドレスを騙って、異様なメールが混じるようになってきた。こうなると、公に拡がるのも時間の問題かも知れない。リーダーの歌織にとって、リベンジポルノのネタにされるより、仕事関係でのスキャンダルの方が致命的だ。こんな稚拙な内容でも、担当を外せと言われてしまう。
 そういうことか。
 書類を読んでも頭に入ってこない。業務を妨害するわけね、しかも個人的に。
 ただ、芳河がやっているとは思えなかった。粘着質な性格でもないし、第一ハッキングのスキルはないと思う。
 少し考えた末に、コンサルタントと連絡をとることにした。
 会社に総務がいない代わりに、アウトソースのコンサルが使えるのだ。ただし、メンタル関係ではない。そんなところでは解決しないだろう。

「なるほど」
 ディスプレイの向こうで、スーツを着た若い男性が答えた。
 リーダーになる前は、歌織もラフな格好で仕事をしていた。制服のない会社だ。だが、いまは対外的に人と会う機会も増えて、スーツを着る機会が多い。相手もスーツでないと落ち着かない。
「どのように対処すべきなのでしょうね、というか、これって何なんでしょうか」
「まず、サイトの情報を見たところから始まっていますね」
「そう……なのですか」
「生成的事前訓練型トランスフォーマーというものをご存じですか」
「トランスフォーマーですか、いや」
「GPTと一般的に呼ばれるものです」
「ああ、それなら聞いたことがあります」
「学習結果によって、写真や文章などを生成する装置です。もちろんハードウェアではなく、ある種のアルゴリズムですが」
「そういう装置は一般的には使えないんですよね」
「おっしゃるとおり、フェイクを使った詐欺に悪用されるため、特定の許可を得た研究者以外使えません。国によっては禁止されています。人間をまねる機械は制限されているわけですね」
 他人の顔を自在に生成する、他人の文章を自由に模倣すると話題になった、例の技術である。第三世代はもはや真贋を見分けること自体が不可能だと、センセーショナルに報道された。
 結果的に、多くの国で「人をまねる機械」は法的に規制された。
 一昔前なら人間に似たものは、ヒューマノイド型ロボット、アンドロイドに決まっていた。SFとか思考実験の産物だ。実現はずっと先だと考えられてきた。ところが、姿を持たないソフトウェアが人をまねるようになった。見えていないだけ、よけいにたちが悪い。
「今回の相談と、GPTが関係しているのですか」
「そのサイトは、おそらくGPTが生成しています」
 話の流れから予想はしていたものの、釈然としなかった。
「でも、禁止なんでしょう、なぜ」
「禁止されてはいても、実際には使われているからです」
「どういうことでしょう」
「GPTの研究は、営利目的のオープンソースで行われていました。途中で制限されたり、また再公開されたり二転三転する間に、ソースは広く拡散してしまった。研究成果も論文の形でオープンになる。結果として、アンダーグラウンドに流れたソースも数多い。今日では、高度のスキルを持つ裏人材なんていくらでも存在しますからね」
「フェイクサイトだと」
「中身の情報は全くのフェイクといえるでしょう。最近そのようなサイトが増えています」
「クレームは出ていないのですか」
「どこにクレームするのか、ですよ。面白いのはね、本当に自動生成されている場合があることです。誰かが意図したものではない。セキュリティのずさんなサーバに侵入して、勝手に雑草が生えるみたいに自生するのです。学習に使える情報はいくらでもある。一見SNSのアカウントに見えるのですが、独自のサイトを持っています。アクセス制限は簡単に破られますし、完全に消すこともできません」
「何のためにそんなものが」
「当初は目的があったかも知れません。今はない」
「でも、どうして無目的なものが、陰謀論のサイトになるのですか」
「制御されない機械学習が何を生むのか。結果的に、ネット上に数多く存在する、人間の行動や発言を凝集したものが生まれてくる。多くは、偏見に満ちた悪い面が凝集されます。過去に蓄積された有用なドキュメント、偉大なる人類の知恵を何倍も凌ぐ莫大な量のスパムです。機械にとって、人間を学習できる恰好のデータです」
 歌織は、人事評価で使った機械のふるまいを思い出した。機械は自発的に判断したのではない。過去の人間の行動を模倣したのだ。
「悪意の塊ですね」
「人の行動には悪意がある、自分が不幸なのはそのせいだと思う。誰かが悪意を持って自分を貶めている、とね。不満があると、性善説より性悪説を受け入れやすくなる。本質的に人間というのは陰謀論が好きなのですよ、残念ながら。そういう人間を学習するとどうなるか」
「でも、自動生成された人間のエッセンスを見て、人間がさらに悪い方へと感化されるのはやりきれない。離れることはできないんですか」
「最新のGPTが生成したサイトを何回か見てしまうと、もう逃れることはできないのです。極めて少ない情報からでも、読み手に最適な内容に変わっていく。回を重ねるごとに、どんどん読みやすくなる」
「自己組織化して、読み手に合わせたパーソナライズをするという意味ですか。本当に」
「フェイクが生成できる真因を、これまで人間は見誤ってきました。機械が人間を学習し、その画や文章のクセ、画像の特徴を理解したからだと思ってきた。しかし、これは勘違いです。機械は別のものを学んだのです」
 話の行方が読めなくなってきた。
「というと」
「人間のどこが騙されやすいのかを学んだのです」
「つまり」
「人を騙す方法を見つけた、それが法で禁止された本当の理由です。機械が人間になったからではないのです」
「機械が騙せるのは、論理的だからですね」
「そこも勘違いがある。いいですか、機械はぜんぜん論理的ではない。だって、学習の手本にしている人間の行動が論理的ではないでしょう。何か決断をするにしても、ときどきの感情に左右される、その場限りの思いつきや後先を考えない条件反射的な行動をとる。人間特有の不合理さです。だから、機械が生成したものは論理的ではない。スピリチュアルとか、エモーショナルとかに解釈できるものになる。人の感情を模倣するのですよ」
「詐欺師と同じですね」
「それも、完璧な詐欺師なのです。論理よりも気分を優先する人間は、簡単に騙される。機械が生成した陰謀論のサイトには、恐るべき魔力があるのです。捕らわれると脱出不可能になる」
 コンサルは併せて、もう二度とサイトを見るなとアドバイスをくれた。
 最初にセキュリティが不十分な状態でサイトにアクセスした結果、歌織の個人情報が盗み取られたのだ。メールは誘い水のようなものだ。煩わしいと思ってアクセスすると、次からは歌織に合わせたパーソナライズが詳細化され、もっと深く取込まれる恐れもある。
 コンサル提供のツールを使って、PCのクリーンアップやアドレスの変更など、考えられることはすべて実施した。スパムは途絶えたが、それでも不安は残った。
 まあ、根拠のない感情なのだが。
「すでに取り憑かれている部下は、どう扱ったらいいでしょう」
「話し合いで解決はしないので、環境を変えるためにも異動させるべきでしょう」
「異動ですか、それは……」
 芳河の経歴を考えるとためらわれた。部門間を渡り歩くだけの異動歴が、何行にもわたって続くのだ。
 でも、仕方ない。歌織はそう思うことにした。
 勝手かも知れないけど、自分にできることはもうない、もうムリなのだ。
 芳河には恨みはない……ないこともないが、今回は仕方ない諦めよう。

 異動を告げた。
 社内異動の場合、意思確認する必要はなく、辞令を拒否する権利もない。手続き的には簡単だった。すると、芳河は意外な反応を見せた。
 笑ったのだ。
「なにがおかしいのですか」
 いつもの人の良さそうな笑顔ではない。ちょっと気味が悪かった。
「昔、というかそんな昔じゃないな。リーダーに、おれが何をしてきたか話したことがあっただろう」
「わたしが入社する前の話ですか」
「詳しく話してはいなかったけど、おれはある装置のソフトを作っていた。当時としては、結構先端技術を使っていた」
 腕を組んで身を乗り出す。
「何を作っていたかというと、ニューラルネットの応用商品だ」
「……トランスフォーマーですか」
「ふん、それはグーグルがあとで付けた名前だ。しゃれた名前なんか付いてない。当時のリカレント型のニューラルネットは、効率が悪く性能も上がらなかった。やろうとしてたのは、ペットとか赤ん坊みたいな、飼い主や親に自動的、学習的に反応する機械だ。よくあるアイデアだし、コストの限られたおもちゃなんだから、できることは限られる。ロボット的なメカは省略して、小さなディスプレイだけのモデルにした。表情がわかればいいだろう、という発想だ。試作品を作って、玩具メーカとコラボで実験をしてみた」
 芳河は少し間を空けた。
「玩具は単純な反応しかしない。ユーザが微笑めば微笑み返す。ユーザが怒れば怒った顔になる。鏡のようなものだ。オウム返しではなく、ある程度の学習機能を持っていてユーザに合わせてくる。仕組みは、使っていればすぐに分かる。ユーザの一日の気分を、顔の表情で見せてくれる機械だ。最後に、どうなったか」
 問いかけではなかった。
「もどされたサンプル品を見て、おれは驚いた。どれもこれも怒りの表情を浮かべていたからだ。顔はユーザに似せるようになっている。さまざまな顔が、強弱はあるものの、怒りを表現していた」
「なぜ、そんなことに」
「おれの設計に問題があるとみなされた。単純化したニューラルネットでは、人間の感情に追従できないというわけだ。原理的に無理なら、商品化をすすめる意味もなくなる。部門は解散だった」
 何が言いたいのだろう。歌織は戸惑った。
「お話は分かりましたが……」
 芳河は構わずに続ける。
「感情の起伏は一様ではない。人間の感覚では、喜びと怒りは同じぐらいにある。しかし、機械はそう見なかった。人間の表情から、怒りとか不機嫌さが中心にあると解釈した。人間ならば、他人がいる前で生の感情を出さない。怒りは奥底に押し隠し、なかったふりをする。しかし、それは欺瞞だ。最近になって、ようやくおれはその答えを見つけた。あんたに教えたあのサイトだ」
「あのサイトは、でも」
「あそこには鏡が置かれている。磨き抜かれた鏡だ。その中にはおれの顔が映っている。おれの心の中が見えてくるんだ。それはきれい事じゃない。薄汚れたどろどろしたものだ。おれは犯罪行為も、暴力沙汰も起こしたことはないが、奥底にあるものは何ものにも囚われない怒りだ。原始的で、動物的で、抑えられないもの、それがあそこにはあった。おれは正しかったんだ」
 芳河は、咳き込むようにして声を詰まらせた。